2015年3月9日、兵庫県洲本市の住宅地で、近隣に暮らす2世帯の男女5人が相次いで殺害された。逮捕された平野達彦は犯行自体を大きく争わず、裁判の中心は「なぜ5人を殺害したのか」と、その時にどこまで自分の行動を制御できたのかへ移った。
神戸地裁の裁判員裁判は完全責任能力を認めて死刑を言い渡した。しかし大阪高裁は別の精神鑑定を採用し、妄想性障害が犯行に圧倒的な影響を与えていたとして心神耗弱と認定する。結論は無期懲役へ変わり、2021年に最高裁で確定した。
| 発生 | 2015年3月9日 |
|---|---|
| 場所 | 兵庫県洲本市 |
| 被害 | 近隣2世帯の男女5人が死亡 |
| 被告人 | 平野達彦 |
| 一審 | 2017年3月22日、神戸地裁が死刑 |
| 控訴審 | 2020年1月27日、大阪高裁が死刑を破棄し無期懲役 |
| 上告審 | 2021年1月20日、最高裁が上告棄却 |
| 確定刑 | 無期懲役 |
二つの住宅で、近隣の5人が相次いで殺害された
被害に遭ったのは、平野毅さん(82)と妻の恒子さん(79)、平野浩之さん(62)と妻の方子さん(59)、浩之さんの母・静子さん(84)。同じ地区で暮らしていた近隣住民だった。
事件は9日未明から朝にかけて発生した。平野達彦は刃物を使って5人を殺害したとして逮捕され、殺人と銃刀法違反の罪で起訴された。5人死亡という結果だけでなく、被告の精神状態が捜査・裁判の大きな問題となった。
被害者から「電磁波攻撃を受けている」という妄想
平野は事件前から、近隣住民らから電磁波による攻撃を受けているという趣旨の訴えをインターネット上などで続けていた。裁判では、こうした認識が現実に根拠を持つものではなく、精神疾患による妄想だった点自体は大きく争われなかった。
問題は、その妄想が殺害の意思決定にどの程度影響したのかだった。刑法上、精神障害があるだけで刑事責任が失われるわけではない。善悪を判断する能力や、その判断に従って行動を制御する能力が、犯行時にどの程度保たれていたかが問われる。
一審鑑定は「薬剤性精神病」、それでも完全責任能力を認定
神戸地裁で行われた一審の精神鑑定は、過去の向精神薬摂取などを踏まえて平野を「薬剤性精神病」と診断した。裁判所は精神疾患があったことを認めつつ、殺害の決意や実行への影響は限定的だったと判断した。
計画的に凶器を準備し、複数の被害者を別々の住宅で襲った行動なども評価され、神戸地裁は2017年3月22日、完全責任能力があったとして求刑通り死刑を言い渡した。弁護側は即日控訴した。
控訴審が新たな鑑定を実施し、診断が変わった
大阪高裁は控訴審で改めて精神鑑定を実施した。新たな鑑定医は平野を「妄想性障害」と診断し、被害者から攻撃されているという妄想が事件に圧倒的な影響を及ぼしていたと評価した。
検察側は、犯行には準備や目的に沿った行動が見られ、完全責任能力があったと反論した。弁護側は、新鑑定を踏まえれば心神喪失、少なくとも心神耗弱だったと主張した。一審と控訴審で、同じ行動を精神疾患との関係からどう読むかが分かれた。
大阪高裁は死刑判決を破棄し「心神耗弱」と認定した
2020年1月27日、大阪高裁は一審の死刑判決を破棄して無期懲役を言い渡した。妄想性障害の強い影響を受けていた一方、自分を制御する能力が完全に失われていたわけではないとして、心神喪失ではなく心神耗弱と判断した。
心神耗弱が認められると法律上は刑が減軽される。5人を殺害した重大性が変わったのではなく、犯行時の責任能力について一審とは異なる事実評価がされたことが、死刑から無期懲役への変更をもたらした。
最高裁が上告を棄却し、無期懲役が確定
弁護側は上告したが、最高裁第三小法廷は2021年1月20日付で上告を棄却した。これにより大阪高裁の無期懲役判決が確定した。裁判員が死刑とした事件で、控訴審が責任能力の評価を変えて無期懲役とした例の一つとなった。
この事件の裁判を理解するうえで重要なのは、「精神疾患があったか」だけではない。一審も控訴審も何らかの精神疾患を認めていた。最終的に結論を分けたのは、その疾患が5人の殺害を決意し実行する過程へどこまで影響したと評価するかだった。
事件後、精神科医療から地域へ戻る際の支援も課題になった
平野には事件以前に医療機関での治療歴があり、退院後の地域生活をどのように支えるかも事件後の検証課題となった。刑事裁判で責任能力を判断する問題と、医療・福祉が再発防止のために支援をつなぐ問題は別だが、事件を契機に双方が注目された。
確定判決は平野の行為を正当化したものではない。5人の生命を奪った事実を前提に、刑法上の責任能力が「完全」ではなく「著しく減退していた」と判断し、法定の減軽を適用した結果が無期懲役だった。
事件前には措置入院歴があり、退院後支援も後に検討された
平野は事件以前の2010年、精神疾患により自分や他人を傷つけるおそれがあるとして措置入院の対象となり、その後も入退院を繰り返していた。事件前には実家へ戻って生活していた。
この経過は「精神疾患があったから事件を起こした」という単純な因果関係を意味しない。刑事裁判で問われたのは、事件当時の症状が個々の殺害行為にどの程度影響し、行動を思いとどまる能力がどれほど保たれていたかだった。
事件後、兵庫県では措置入院患者が退院した後の継続支援や地域での見守りのあり方が議論された。医療機関から地域生活へ移る際に、治療や福祉支援が途切れない体制をどう作るかという問題が残った。
「心神耗弱」は無罪ではなく、刑を減軽する法的判断
刑法上、心神喪失であれば責任能力がなく処罰されないが、心神耗弱は判断・行動能力が著しく低下していた状態で、刑は減軽される。洲本事件の控訴審が認定したのは後者だった。
大阪高裁は、平野が妄想性障害の影響を強く受けていたとしても、行為の意味をまったく理解できない状態だったとは認定しなかった。そのため殺人罪の有罪自体は維持しつつ、完全責任能力を前提とした一審の死刑量刑を維持できないと判断した。
死刑から無期懲役へ変わったことは、殺害された5人の人数や結果が軽く評価されたことを意味しない。量刑の前提となる責任能力の程度について、一審と控訴審の判断が変わったことが結論を変えた。
二つの精神鑑定が異なる結論を示したことが控訴審の中心になった
一審の精神鑑定は、長期間の向精神薬摂取による「薬剤性精神病」と診断しつつ、犯行への影響は限定的だと評価した。神戸地裁はこの鑑定を踏まえ、平野に完全責任能力があったと認定した。
控訴審では大阪高裁が新たな精神鑑定を実施し、診断は「妄想性障害」へ変わった。鑑定医は、被害者側から電磁波攻撃を受けているという被害妄想が悪化し、事件に圧倒的な影響を及ぼしたと評価した。
高裁は後の鑑定の信用性をより高く評価し、攻撃性が極めて高まり、犯行を思いとどまる能力が著しく低下していたと判断した。裁判員裁判の死刑判決が破棄された理由は、この責任能力判断の変更にある。
5人殺害の重大性と、責任能力の減退を裁判所は別々に評価した
平野が襲ったのは自宅近くにある2軒の住宅だった。死亡したのは平野毅さん(82)、妻の恒子さん(79)、平野浩之さん(62)、妻の方子さん(59)、母の静子さん(84)の5人。いずれも近隣住民だった。
一審は、複数の被害者を相次いで襲った行動、刃物を用意したこと、被害者宅へ向かった経過などから、精神症状があっても行動を選択する能力は保たれていたと評価した。結果の重大性と完全責任能力を前提に死刑を選択した。
控訴審も、5人を死亡させた事実や犯行の重大性を軽く評価したわけではない。異なったのは、妄想性障害による被害妄想が犯行へ及ぼした影響の評価だった。
大阪高裁は、被害者から攻撃されているという妄想が悪化し、平野の攻撃性を著しく高め、犯行を思いとどまる能力を大きく低下させたと認定した。この法的評価が心神耗弱につながり、死刑を維持できなくなった。
最高裁が2021年1月に上告を棄却したことで無期懲役が確定した。事件を「一審は死刑、二審は無期」と結果だけ並べるより、二つの精神鑑定と責任能力判断の違いを追う方が、判決変更の理由を正確に理解できる。
参考資料・出典
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