西口彰事件は、1963年10月から1964年1月にかけて、西口彰が福岡県、静岡県、東京都で計5人を殺害し、大学教授や弁護士などを装いながら全国各地で詐欺や窃盗を重ねた連続殺人事件である。1964年1月3日、西口は逮捕。福岡地裁小倉支部は死刑を言い渡し、控訴審も維持した。西口は1966年8月に上告を取り下げ、死刑が確定。1970年12月11日に刑が執行されている。
- 1963年から1964年に5人が殺害された経緯
- 西口彰が大学教授や弁護士を装って逃走した手口
- 福岡・浜松・東京で起きた各殺人事件の流れ
- 小学生の少女の気づきが逮捕につながった経緯
- 大規模捜査でも長期間逮捕できなかった背景
- 死刑判決、上告取り下げ、1970年の死刑執行まで
| 事件名 | 西口彰事件 |
|---|---|
| 別称 | 西口彰連続殺人事件、西口彰連続強盗殺人事件 |
| 主な犯行期間 | 1963年10月から1964年1月 |
| 主な地域 | 福岡県、静岡県、東京都など |
| 死亡者数 | 5人 |
| 犯人 | 西口彰 |
| 主な犯行 | 殺人、詐欺、窃盗など |
| 起訴内容 | 殺人5件、詐欺10件、窃盗2件 |
| 逮捕日 | 1964年1月3日 |
| 逮捕場所 | 熊本県玉名市 |
| 一審 | 1964年12月23日、福岡地裁小倉支部が死刑 |
| 控訴審 | 1965年8月28日、福岡高裁が控訴棄却 |
| 死刑確定 | 1966年8月15日、本人が上告を取り下げ |
| 死刑執行 | 1970年12月11日 |
| 現在 | 西口は死刑執行済み。刑事手続きは終了 |
事件前から詐欺や窃盗を重ねていた西口彰
西口彰は、1963年の連続殺人以前から犯罪歴のある人物だった。窃盗や詐欺などで繰り返し刑事処分を受け、服役も経験している。人を信用させる話術にたけ、肩書や身分を偽って金銭を得る犯行を重ねていた。西口事件で目立つのは、単に偽名を使うだけではなかった点である。
大学教授、弁護士など、相手が警戒を解きやすい立場を名乗る。必要に応じて周辺情報を集め、実在人物の名前まで利用する。相手が何を信じるかを見極め、その信用を犯行の入口に変える。こうした手口が、全国逃走中の詐欺だけでなく、後の殺人にもつながっていった。
1963年10月、福岡県で男性2人を殺害
一連の殺人が表面化したのは1963年10月18日だった。福岡県内で、専売公社の業務に関わっていた村田幾男さん(当時58歳)と、運転手の森五郎さん(当時38歳)が遺体で発見される。2人は、たばこの販売や集金に関わる業務で移動していた。
西口は2人を相次いで殺害し、集金された現金のうち約27万円を奪ったとされる。当時としては大きな金額だった。別々の場所から2人の遺体が見つかり、業務用の金も消えている。捜査で西口が浮上し、警察は全国へ行方を追う態勢を広げた。
最初の2人殺害後、全国指名手配される
西口にはすでに前科があり、事件当日の行動や目撃情報などから捜査対象となった。警察は西口を全国指名手配する。ここで普通なら、顔写真が全国へ配られた人物は行動を制限される。駅、宿泊施設、繁華街などで見つかる危険が高まるためである。
ところが西口は、人目を避け続けたわけではない。むしろ他人へ積極的に近づき、偽の肩書で信用を得ながら移動した。この大胆さが、逃走を長期化させる一因となる。
投身自殺を装い、警察の追跡をかわそうとした
逃走中、西口は自分が死亡したと思わせる工作にも及んだ。船上に衣類や遺書を思わせるものを残し、海へ身を投げたように装う。もちろん実際には死亡していなかった。
自殺偽装の後も各地を移動し、大学教授などを名乗って他人へ近づく。新聞やラジオによって指名手配情報が広がる時代でしたが、現在のような全国一体のデジタル監視網はない。県境を越え、名前と肩書を変えれば、現場ごとの情報がすぐ結び付かないこともあった。
静岡県浜松市では「大学教授」を装った
西口は静岡県浜松市へ移動する。そこで利用したのが大学教授という偽の肩書だった。当時の報道や警察史資料によると、西口は浜松市内の貸席を営む母娘へ接近した。学者らしい人物を装い、相手の警戒心を解いていく。
事件後の資料では、この浜松事件は西口の犯行として明確に位置付けられている。最初の福岡事件から約1カ月。全国指名手配中の人物が、新しい土地で別人として受け入れられていた。
11月18日、浜松市で41歳女性と61歳の母親を殺害
1963年11月18日、西口は浜松市内で、貸席を営む41歳女性と、その61歳の母親を殺害した。福岡県警察史を参照した国立国会図書館のレファレンス記録では、母娘2人を絞殺し、貴金属や衣類などを奪って入質した事件として整理されている。2人は、目の前の男が全国指名手配中の連続殺人容疑者だと知って迎え入れたわけではない。
大学教授を装い、社会的信用のある人物に見せかけていた。人を信じたことそのものが、犯行に利用された。
浜松の母娘殺害後も、詐欺を重ねながら移動
浜松事件後、西口は逃走を続けた。警察は福岡の2人殺害だけでなく、浜松の母娘殺害との関連も追う。静岡、福岡両県警と警察庁による捜査連携も進められた。それでも西口は止まらない。
各地で弁護士や大学教授などを装い、金をだまし取る。相手の事情を聞き出し、自分が問題を解決できる人物であるかのように振る舞う。西口は、逃走犯として社会から隠れる一方、詐欺師としては社会の中へ入り込んでいた。
東京では高齢弁護士を殺害し、弁護士の身分まで利用
5人目の被害者となったのは、東京都内に住む高齢の弁護士だった。1963年12月29日、西口は法律相談を装うなどして弁護士へ接近。東京都豊島区の住居で殺害し、現金だけでなく弁護士バッジなども奪ったとされている。ここには、西口事件を象徴する構造がある。
人を殺害して金品を奪うだけではない。奪った身分証明につながる物や情報を、次の偽装へ利用する。殺人と詐欺が別々に存在するのではなく、一つの犯罪が次のなりすましを支える形になっていた。
77日前後の逃走で5人死亡|捜査は国会でも問題に
西口の逃走は約2カ月半に及んだ。この間に5人が死亡し、詐欺や窃盗も繰り返されている。事件は単なる一地方の殺人事件ではなく、都道府県を越える広域捜査の問題へ発展した。
1964年2月には、参議院法務委員会で「西口事件及び重要未解決事件捜査上の諸問題」が議題となっている。国会で具体的に問われたのは、逮捕直前の警察対応や、情報を得てから身柄確保へ至るまでの判断だった。西口事件は、広域化する犯罪に対して警察組織がどう情報を共有し、どう連携するのかという問題を突きつけた。
逮捕のきっかけは熊本県玉名市の寺院だった
逃走の終盤、西口は熊本県玉名市へ現れた。そこでも本名は使わない。東京の弁護士を装い、寺院関係者へ接近した。西口は相手の活動内容や人間関係に入り込み、信用を得ようとする。
ところが寺院にいた小学生の娘が、男の顔に違和感を抱いた。以前に見た指名手配写真の人物と似ているのではないか。大人たちが社会的肩書に惑わされる中、少女は顔そのものを見ていた。
少女の違和感から家族が確認、警察への通報へ
少女の気づきは、単なる「似ている気がする」で終わらなかった。家族は男の言動や名乗っている人物について確認を進める。西口が名乗った弁護士は実在していた。しかし確認すると、本物は東京にいる。
つまり目の前にいる男は、少なくとも名乗っている本人ではない。家族は警察へ知らせた。この時、家の中には5人を殺害した容疑で全国を追われる人物が滞在している可能性があった。
逮捕劇の緊迫した経緯は、その後国会でも検証されることになる。
警察の対応が遅いと感じた家族|国会で検証された逮捕前夜
国会会議録には、逮捕へ大きく貢献した寺院側と警察の間に、対応をめぐる緊張があったことが残されている。家族側から見れば、凶悪犯かもしれない男が同じ建物にいる状況だった。警察側は、本人確認が十分でないまま動けば逃走、自殺、家族への危害を招く危険があるとして慎重に対応。県警本部からは内部で張り込む指示も出ましたが、現場判断では外側からの警戒となった。
午前4時ごろまで十分な連絡がなかった点などをめぐり、後に問題が表面化している。国家公安委員長も国会で、警察の措置を「百点満点」とは考えていないという趣旨の認識を示した。事件解決の裏には、少女の気づきだけでなく、家族が恐怖の中で確認と通報を続けた時間があった。
1964年1月3日、西口彰を逮捕
1964年1月3日、西口は熊本県玉名市で身柄を確保された。指紋などによる確認を経て、全国指名手配中の西口本人と判明する。最初の2人殺害から約2カ月半。
その間に福岡、静岡、東京で5人が命を奪われた。逮捕後、西口は各事件について捜査を受け、最終的に殺人5件、詐欺10件、窃盗2件で起訴される。
1964年、福岡地裁小倉支部が死刑判決
西口の刑事裁判では、5人殺害に加え、多数の詐欺・窃盗が審理された。1964年12月23日、福岡地裁小倉支部は西口に死刑を言い渡す。事件ごとに被害者との関係や動機は異なった。
しかし共通するのは、自分の金銭、逃走、身分偽装を優先し、相手の信頼を利用したことである。福岡で2人を殺害した後も止まらず、全国指名手配中に新たな殺人を重ねた。逃亡中に被害者が3人増えた結果は、極めて重大だった。
控訴棄却後、本人が上告を取り下げて死刑確定
西口側は一審判決を不服として控訴した。しかし1965年8月28日、福岡高裁は控訴を棄却。一審の死刑判断を維持する。その後、弁護側は最高裁へ上告した。
ところが西口本人は1966年8月15日に上告を取り下げる。これにより、最高裁が死刑判決を維持する判決を言い渡したのではなく、本人の上告取り下げによって死刑が確定した。
1970年12月11日、死刑執行
死刑確定から約4年4カ月後、刑が執行される。1970年12月11日、西口彰の死刑が執行された。西口は44歳だった。
したがって現在も、「現在も死刑囚として収容されている」「再審中」といった説明は正確ではない。死刑執行によって本人への刑事手続きは終了している。
映画『復讐するは我にあり』のモデルになった事件
西口彰事件は、後の文学や映画にも大きな影響を与えた。佐木隆三は事件を題材に長編小説『復讐するは我にあり』を執筆。同作は直木賞を受賞する。1979年には今村昌平監督によって映画化され、緒形拳が主人公を演じた。
ただし作品は、西口事件を題材とした創作である。映画の主人公名や細部の描写を、そのまま現実の事件記録として扱うことはできない。実際の事件を確認する際には、作品上の人物像と、捜査・裁判で認定された事実を分ける必要がある。
西口彰事件が残したもの
1963年10月、福岡県で2人の男性が殺害された。西口は現金を奪い、逃走する。全国指名手配された後も、人との接触を避けなかった。大学教授を名乗り、弁護士を名乗り、相手が信頼する人物の名前を使う。
浜松では母娘2人が殺害された。東京では高齢の弁護士が殺害される。最初の殺人後に逮捕されていれば、後の3人は事件に巻き込まれなかった。
その事実が、広域捜査の問題を重くした。そして最後に西口の正体へ疑いを持ったのは、熊本県玉名市の寺院にいた小学生の少女だった。少女の気づきを家族が受け止め、男の身分を確認し、警察へ通報する。その一連の行動が逮捕へつながる。
一方、逮捕前夜の警察対応は国会で検証された。情報を受けた後の動き、家族の安全確保、現場との連絡。事件解決後も課題は残っている。西口彰事件は、5人の生命を奪った連続殺人事件であると同時に、なりすまし詐欺、県境を越える逃走、広域捜査の限界、そして市民からの情報をどう事件解決へ結び付けるかを問い直した事件である。
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