栗田源蔵連続殺人|おせんころがし母子3人殺害と、二つの死刑判決に至るまで

公開日 2026年2月19日
最終更新 2026年8月28日
カテゴリー 1950年代 大量殺人事件 死刑

事件ステータス

発生年月日
1951年
都道府県
千葉県
事件分類
大量殺人事件
司法状況
確定
最終刑・処分
死刑

1952年1月、千葉県検見川町の民家で女性2人が殺害された。現場には指紋が残っていた。照合の結果、一人の男が捜査線上へ浮かぶ。栗田源蔵。当時25歳前後だった栗田を調べると、千葉だけでは終わらなかった。栃木県の女性殺害、前年秋の「おせんころがし」母子殺害、さらに1948年の静岡県での女性殺害へと、別々に見えていた事件がつながっていく。

栗田事件は「8人殺害」と紹介されることが多い。ただし刑事裁判で扱われた死亡者を整理すると7人となり、別に1948年の女性1人殺害の供述が残る。この未起訴の1件まで含めるかどうかで、7人と8人の二つの数字が生まれる。事件の規模を示す数字ほど、裁判で認定された事実と供述段階の情報を分ける必要がある。

犯行が問題となった期間1948年~1952年1月
主な地域静岡県、栃木県、千葉県
裁判で扱われた死亡者7人
別に残る殺害供述1948年の女性1人。起訴されていないとされる
おせんころがし事件母親と子ども2人が死亡、長女1人が生存
逮捕につながった事件1952年1月の千葉県検見川町2人殺害
千葉地裁1952年8月、検見川町事件で死刑
宇都宮地裁1953年12月21日、他事件について死刑
死刑確定1954年10月、控訴取り下げ
死刑執行1959年10月14日

1948年、静岡県で交際女性をめぐる殺害から始まったとされる

後年の資料では、栗田の連続殺人は1948年の静岡県から始まったとされる。交際関係にあった女性をめぐる事件で、一人を殺害した後、その行方を問いただし自首を勧めた別の女性も殺害したという供述が残る。

ただし、この時期の2件を同じ法的確度で扱うことはできない。刑事裁判で起訴され認定されたのはそのうち1件とされ、もう1件は栗田の供述に基づいて知られるものの起訴されていない。この差が、後年の被害者数表記に影響する。

「栗田は8人を殺した」と書く場合、その8人目は未起訴の殺害供述を含む。一方、確定した刑事裁判の対象となった死亡者を数える場合は7人となる。ここを曖昧にすると、捜査段階の自白と司法判断が同じ意味になってしまう。

1951年8月、栃木県小山町で24歳女性が殺害された

1951年8月8日、栃木県小山町、現在の小山市で、乳児と一緒にいた24歳の女性が自宅で襲われた。後年の事件資料では、栗田が女性へ性的暴行を加えたうえ絞殺した事件とされる。乳児は生き残った。

この事件の時点では、栗田は逮捕されていない。静岡県の事件とも結びつかず、単独の未解決殺人として残った。約2か月後、栗田は千葉県の房総半島で、さらに母子4人を襲う。

夫を捜していた母子4人が、おせんころがしへ向かった

1951年10月10日、行方が分からなくなった夫を捜すため、29歳の母親が3人の子どもを連れて房総へ来ていた。千葉新聞の当時記事を調べた国立国会図書館のレファレンス記録によると、事件発覚直後は夫が疑われ、「父親八郎を指名手配」という見出しまで出た。

翌日の報道では父親への疑いが後退し、新聞見出しは「父は白、流しの痴漢?」へ変わっている。事件直後の捜査では、被害者家族の関係者から未知の第三者まで仮説が揺れた。栗田の名前はまだ出ていなかった。

母親と3人の子どもは、千葉県安房郡小湊町、現在の鴨川市にある海岸の断崖「おせんころがし」付近へ連れ出された。後の認定では、栗田は母親へ性的関係を迫り、子どもたちを排除しようとした。

長女だけが生き残った

栗田は子どもを崖下へ落とし、母親にも性的暴行を加えたうえ、幼い子どもとともに崖から落としたとされる。崖下へ落とされた全員が直ちに死亡したわけではなく、栗田は生存していた被害者にさらに攻撃を加えたと後年資料は伝えている。

最終的に母親と長男、幼い次女の3人が死亡した。一方、長女は負傷しながらも草むらなどに身を隠し、生き残った。彼女は事件の目撃者でもあった。

10月12日付の千葉新聞は「旅の母子三人惨殺さる」と報じ、その後も母子の足取りや捜査状況を連日掲載した。現在「おせんころがし事件」として知られるのは、この母子4人殺傷事件である。

しかし、この事件だけでは栗田へたどり着けなかった

生存者がいたにもかかわらず、1951年秋の段階で栗田が直ちに逮捕されたわけではない。被害者一家が旅の途中だったこと、犯人との接点が見えにくかったことなどから、捜査は難航した。

栗田はその後も自由の身だった。おせんころがしで3人が死亡してから約3か月後、千葉県検見川町で起きた別の事件が、ようやく連続事件全体を解く入口になる。

1952年1月13日、検見川町で女性2人を殺害

1952年1月13日、栗田は千葉県千葉郡検見川町、現在の千葉市花見川区の民家へ侵入した。以前にも盗みに入ったことのある家で、家人に見つかったことから女性2人を殺害したとされる。

この事件では、現場に栗田へつながる指紋が残った。逃走後、警察が指紋を照合し、栗田が重要な容疑者として浮上する。1月中旬、栗田は逮捕された。

逮捕は一件の殺人捜査を終わらせるものではなかった。栗田の過去の行動、各地で起きた未解決事件、供述を調べる中で、栃木県小山町、おせんころがし、静岡県の事件との関連が次々に捜査対象となった。

取り調べで複数の殺人を供述、おせんころがしは当初否認したとされる

後年の資料では、栗田は逮捕後、静岡や栃木での殺人について供述を始めた一方、おせんころがしの母子殺害については当初認めなかったとされる。捜査側は、犯行時期の行動や生存者の証言などを積み重ねた。

複数県にまたがる事件のため、一つの裁判所だけで一括して審理されたわけではない。逮捕の直接原因となった検見川町事件と、栃木・おせんころがしなどの事件は、別々の裁判手続へ進む。これが、一人の被告人に一審で二度の死刑判決が言い渡される異例の経過につながった。

まず千葉地裁が、検見川町の2人殺害で死刑

国立国会図書館のレファレンス記録によると、1952年8月14日付の千葉新聞には「検見川二人殺し死刑」という見出しの記事がある。判決は前日の8月13日に言い渡されたと整理されている。

この裁判の対象は、逮捕へ直接つながった検見川町の女性2人殺害が中心だった。栗田は控訴し、死刑はまだ確定しなかった。その間に、別県で起きた事件についても起訴・公判が進む。

宇都宮地裁でも死刑――同一人物に一審で二つの死刑判決

1953年12月21日、宇都宮地裁は小山町事件やおせんころがし事件などについて栗田に死刑を言い渡した。国立国会図書館が確認した翌22日付千葉新聞には「栗田、死刑の判決」という見出しが残る。

この時点で栗田は、別々の一審判決として二つの死刑判決を受けたことになる。複数の事件が地域をまたぎ、異なる裁判所で進んだために生じた経過だった。

事件全体を一言で「おせんころがし事件」と呼ぶだけでは、この二つの裁判を見落としやすい。逮捕の決め手になったのは検見川町事件であり、そこから過去の複数事件へ捜査がさかのぼった。

1954年、控訴を取り下げて死刑が確定

栗田は死刑判決を受けた後に上級審で争ったが、1954年10月に控訴を取り下げ、死刑が確定した。国立国会図書館のレファレンス記録では、10月23日付千葉新聞に「栗田の死刑判決確定」とある。

したがって、栗田の死刑確定を単純に「最高裁が死刑を確定」と書くのは適切ではない。控訴の取り下げという手続によって一審の死刑判断が確定した。

なぜ「7人」と「8人」が併存するのか

裁判で扱われた死亡者を整理すると、1948年の静岡県で1人、1951年の栃木県で1人、おせんころがしで3人、1952年の検見川町で2人。合計7人となる。

一方、1948年にもう一人の交際女性も殺害したという栗田の供述を含めると8人になる。この1件は起訴されていないとされるため、「8人殺害」と「裁判で認定された7人」は同じレベルの事実ではない。

記事では数字の大きさを優先するのではなく、何が起訴され、何が供述にとどまったのかを分ける必要がある。未起訴の供述まで含む一連の犯行を説明する際には8人、確定した刑事裁判の対象を説明する際には7人という整理になる。

死刑確定後も再審を求め、1959年に執行

死刑確定後、栗田は再審を求める動きを続けたとされる。しかし確定判決は覆らず、1959年10月14日に死刑が執行された。

一連の事件で特徴的なのは、特定の一つの場所や被害者属性だけを狙った連続殺人ではなかったことだ。静岡、栃木、千葉と地域が移り、交際相手、一般家庭の女性、旅の母子など被害者との関係も異なる。

そのため、栗田を逮捕した一件だけを見ても全体像は分からない。検見川町に残った指紋を入口に、過去の未解決事件を一つずつ照合し、別々の県の事件を同じ人物へ結びつけた捜査と、二つに分かれた裁判手続まで追うことで、初めて事件の輪郭が見える。

戦後の移動生活と犯罪歴――一つの地域に根を張らなかった栗田

近年、当時資料や書籍を基に再構成された文春オンラインの記事では、栗田は1926年に秋田県の大家族へ生まれ、十分な教育を受けにくい貧しい環境で育ったとされる。戦後は炭鉱労働や食糧を扱う仕事などを転々とし、闇米の運搬に関わる集団で「ハヤブサの源」と呼ばれた時期もあったという。

ただし、生い立ちや貧困を殺人の原因として短絡的に結びつけることはできない。重要なのは、栗田が戦後の混乱期に複数県を移動し、一定の職業や居住地へ長くとどまらなかったため、静岡、栃木、千葉で起きた事件が当初は別々の事件として扱われたことだ。

被害者との関係も一定ではなかった。交際関係にあった女性、自宅にいた女性、旅の途中だった母子、盗みに入った家の住人と、犯行ごとに接点は異なる。『特定の条件に合う被害者だけを狙った連続事件』ではなく、栗田の行動歴をさかのぼって初めて複数事件がつながった。

検見川町の指紋が、それまで別々だった事件を一人へ集約した

1952年1月の検見川町事件が決定的だったのは、2人が殺害されたことだけではない。現場に残った指紋という客観的な手掛かりが、栗田本人へ捜査を到達させた。逮捕後、捜査側は栗田の移動歴や過去の交際関係を洗い直し、未解決の殺人と時間・場所を照合していった。

その過程で、前年8月の栃木県小山町事件、10月のおせんころがし事件、さらに1948年の静岡県での事件が捜査対象となった。連続殺人の全体像が最初から見えていたのではなく、最後の事件に残った証拠から過去へさかのぼり、別々の捜査記録をつなぎ直した結果として浮かび上がった。

おせんころがし事件では発覚直後、行方不明だった父親が疑われて新聞で指名手配と報じられ、翌日には『父は白』と方向転換している。この初動の揺れも、当時は犯人像がほとんど見えていなかったことを示す。栗田の逮捕までには、母子3人が殺害されてから約3か月を要した。

参考資料・出典

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