おせんころがし事件を含む栗田源蔵連続殺人|確定7人と未起訴供述、2度の死刑

公開日 2026年2月19日
最終更新 2026年7月31日
カテゴリー 1950年代 大量殺人事件 死刑

栗田源蔵による連続殺人事件は、1948年から1952年にかけて静岡、栃木、千葉で女性や子どもが相次いで襲われた一連の事件である。代表的な事件が、1951年10月11日に千葉県の断崖「おせんころがし」で母子が襲われた事件だった。

栗田は1952年1月の千葉県検見川町での女性2人殺害をきっかけに逮捕され、別々の裁判で2度の死刑判決を受けた。1954年10月に控訴を取り下げて死刑が確定し、1959年10月14日に宮城刑務所で執行された。

死亡者数は資料により7人と8人が混在する。裁判で扱われた殺害と、栗田が供述したものの起訴・有罪認定へ至らなかった1件を分けずに合計することが原因であり、本記事では確定判決の範囲と未起訴供述を区別する。

POINT
この記事でわかること
  • 1948年から1952年に続いた栗田源蔵の犯行経緯
  • 7人説と8人説で被害者数が異なる理由
  • おせんころがしで母子4人が襲われた状況
  • 1952年の検見川町女性2人殺害から逮捕まで
  • 別々の裁判で2度の死刑判決を受けた経緯
  • 再審請求と1959年の死刑執行まで

栗田源蔵連続殺人事件の概要

事件名栗田源蔵による連続殺人事件
代表的呼称おせんころがし殺人事件
主な犯行期間1948年から1952年1月
主な地域静岡県、栃木県、千葉県
加害者栗田源蔵
死亡被害者裁判で扱われた事件では7人と整理される
被害者数の別説未起訴の殺害供述を含め8人とする資料もある
主な事件静岡の女性殺害、小山事件、おせんころがし事件、検見川町女性2人殺害
一審判決別々の裁判で2度の死刑判決
死刑確定1954年10月21日の控訴取り下げ
死刑執行1959年10月14日
現在刑事手続きは終了

「おせんころがし事件」だけではない|犯行は約4年間に及んだ

栗田源蔵の名は、現在もおせんころがし殺人事件と結びつけて語られることが多くあります。 しかし、一連の犯行をそこだけで捉えると全体像を見誤ります。

栗田をめぐって確認されている殺人事件は、1948年の静岡県から始まりました。その後、栃木県、千葉県へと場所を変えながら被害が続いています。

そして1952年1月。千葉県検見川町で女性2人が殺害された事件をきっかけに、栗田へ捜査の手が伸びました。

逮捕後に過去の事件が掘り起こされ、各地で別々に見えていた死が一人の男へつながっていったのです。

1948年の静岡県|交際女性をめぐる最初期の殺人

一連の犯行で最も早い時期に位置づけられるのが、1948年の静岡県での女性殺害です。

栗田は当時、複数の女性と交際関係にあったとされます。その人間関係が崩れるなか、交際女性の一人を殺害した事件が後に裁判対象となりました。

ここで注意したいのが、被害者数です。

栗田は別の交際女性も殺害した趣旨の供述をしたとされますが、その1件は立件されていません。このため、資料によって7人死亡8人死亡が混在しています。

事件記事では、供述があることと、有罪判決で認定されたことを同じ扱いにはできません。 そのため本記事では、裁判で扱われた事件を軸にしながら、未起訴の1件が「8人説」の背景にあると整理します。

1951年、栃木県小山町で女性が殺害された

静岡での事件から数年後、栗田は再び人の命を奪いました。 1951年8月上旬、当時の栃木県下都賀郡小山町で、民家の女性が襲われて死亡します。

栗田は住居へ入り、女性に性的暴行を加えたうえで殺害したとされました。さらに衣類や自転車などを持ち去ったとして、後の裁判で重い刑事責任を問われます。

被害者は自宅にいました。

本来なら外からの危険を避けられるはずの場所へ男が入り込み、そのまま命を奪う。残された家族にとっては、日常の空間そのものが事件現場へ変わりました。

それでも栗田は、この事件で止まりません。

約2カ月後。千葉県の海岸沿いで、さらに大きな被害が発生します。

1951年10月11日、おせんころがしで母子4人が襲われた

一連の犯行の中で最も知られているのが、おせんころがし殺人事件です。 1951年10月11日未明、千葉県安房郡小湊町、現在の鴨川市周辺にある断崖で事件が起きました。

被害に遭ったのは、母親と3人の子どもです。

栗田は母子を人目の少ない方向へ連れ出し、子どもたちを断崖から落としました。さらに母親へ性的暴行を加え、母親と幼い子どもも崖下へ落としたとされています。

結果として、母親と子ども2人が死亡。もう1人の子どもは生き残りました。

暗い断崖の下で家族を失いながら、一人だけ命をつないだ子どもがいた。この生存者の存在は、後に事件の経緯を知るうえでも大きな意味を持ちました。

なお、「おせんころがし」という名称は海岸の断崖地帯に伝わる地名・伝説に由来します。事件そのものの名称から生まれた言葉ではありません。

1952年1月、検見川町で女性2人が殺害された

おせんころがし事件から約3カ月後。栗田は再び千葉県内で事件を起こしました。

1952年1月13日、当時の千葉県千葉郡検見川町、現在の千葉市花見川区周辺の民家で女性2人が殺害されます。

栗田は住居へ侵入し、室内にいた女性を襲撃。さらに、もう一人の女性も殺害したとされました。

この事件が転機になります。 現場に残された指紋などの捜査から栗田が浮上し、事件後まもなく身柄を拘束されました。

逮捕された時点で明らかだったのは、一つの住宅で起きた女性2人殺害です。 ところが捜査が進むにつれ、小山町の事件、おせんころがし事件、さらに過去の静岡県での殺人へと追及が広がっていきました。

逮捕後に余罪が浮上|各地の未解明事件が栗田源蔵へつながった

連続殺人事件では、すべての犯行が同時に発覚するとは限りません。 栗田の場合も同じでした。

検見川町の事件で逮捕された後、過去の行動や供述が調べられます。その中で、栃木県の女性殺害や千葉県のおせんころがし事件などが浮上しました。

犯行場所は一つの県に集中していません。

静岡、栃木、千葉。時期も離れ、被害者との関係も同じではありませんでした。

だからこそ、一つの逮捕から過去へさかのぼる捜査が重要になりました。別々に見えていた事件が、ようやく同じ人物の犯行として裁判へ進んだのです。

被害者は7人か8人か|資料によって人数が違う理由

栗田源蔵を扱う記事では、「7人を殺害」「8人を殺害」という二つの数字が見られます。 これは単純な数え間違いではありません。

裁判で扱われた事件を数えると、主に次の7人が死亡しています。

  • 1948年の静岡県の事件:女性1人
  • 1951年の栃木県小山町の事件:女性1人
  • おせんころがし事件:母親と子ども2人
  • 1952年の検見川町事件:女性2人

合計は7人です。

一方、1948年にもう1人の交際女性も殺害したとの供述を加えれば8人になります。しかし、この1件は立件されていません。

そのため、司法上の認定を軸にするなら7人、未起訴の殺害供述まで含める資料では8人という違いが生まれます。 事件の重大さを強調するために人数を大きく見せるのではなく、何が裁判で認定され、何が未起訴なのかを分けることが欠かせません。

1952年、千葉地裁が最初の死刑判決

まず裁かれたのは、検見川町で女性2人が殺害された事件でした。 1952年8月13日、千葉地裁は栗田に死刑を言い渡します。

一つの住居へ侵入し、女性2人の命を奪った結果は極めて重大でした。性暴力を伴う犯行態様も厳しく評価されます。

栗田はこの判決を不服として控訴しました。

ただ、その時点で裁判は終わりません。逮捕後に明らかになった別の殺人事件について、もう一つの裁判が進んでいたからです。

1953年、宇都宮地裁でも死刑|同じ被告人に2度の極刑

1953年12月21日、宇都宮地裁は栗田に再び死刑を言い渡しました。 こちらでは、栃木県での女性殺害や、おせんころがし事件などが審理されています。

つまり栗田は、同じ一つの判決で「死刑を二重に科された」のではありません。 別々に進んだ刑事裁判で、それぞれ死刑判決を受けたのです。

すでに一度死刑を言い渡された被告人へ、別事件で再び死刑を宣告する。日本の刑事裁判史でも極めて異例の経過でした。

国立国会図書館のレファレンス記録でも、当時の千葉新聞が1953年12月22日付で「栗田、死刑の判決」と報じていたことが確認されています。

1954年に控訴取り下げ|2件の死刑判決が確定

栗田は当初、死刑判決を不服として控訴していました。 ところが1954年10月21日、控訴を取り下げます。

これにより、千葉地裁と宇都宮地裁で言い渡されていた死刑判決が確定しました。 裁判はここで終結したようにも見えます。

しかし死刑確定後、栗田は一部事件について犯行を否定し、再審請求へ動きました。

死刑確定後に再審請求|一部事件の自白を争った

栗田は、確定したすべての事件について最後まで同じ態度を取ったわけではありません。 死刑確定後、おせんころがし事件について、捜査段階の自白が強要されたという趣旨の主張を行い、再審を求めました。

さらに検見川町の女性2人殺害事件でも、取り調べや犯行認定を争う動きがありました。 少なくとも公開資料では、1958年に再審請求を退ける判断が出た経過が確認されています。

ここで区別すべきなのは、再審請求をしたことと、冤罪が認められたことは同じではないという点です。 栗田の死刑判決が再審で取り消されることはありませんでした。

1956年の国会でも言及|死刑存廃論の中で実名が出た

栗田の事件は、刑事裁判だけにとどまらず、日本の死刑制度をめぐる議論にも登場しました。 1956年5月、参議院の法務委員会公聴会では死刑制度の是非が議論され、その中で栗田源蔵の事件が取り上げられています。

すでに死刑判決が確定した具体例として、犯行内容が紹介されました。

一方、公聴会そのものは死刑存置だけを一方的に確認する場ではありません。死刑の不可逆性や人権、国家が生命を奪うことへの疑問も議論されています。

栗田事件は、それほどまでに当時の死刑論議と結びついた事件だったのです。

1959年10月14日、栗田源蔵の死刑を執行

死刑確定から約5年。 1959年10月14日、栗田源蔵の死刑が執行されました。

栗田は1926年生まれ。執行時は32歳でした。

1948年から続いた一連の殺人、逮捕後の二つの死刑裁判、控訴取り下げ、再審請求。長い司法手続きは、ここで終わります。

ただし、死刑執行によって被害者側の時間が戻るわけではありません。

母子を一度に失った家族。自宅で突然命を奪われた女性たち。そして、おせんころがしで生き残った子ども。

事件の数字だけを追えば見えにくくなりますが、その背後には突然家族を奪われた人々の生活がありました。

栗田源蔵事件をめぐる情報で注意したいこと

古い事件だけに、現在インターネット上では事実関係が混在しています。 特に注意したいのが、被害者数、事件日、被害者年齢です。

資料によって7人・8人が分かれるほか、1951年の栃木県事件の日付、おせんころがし事件の母子の年齢にも差があります。 そのため、数字を一つ選んで他を誤りと決めつけるのではなく、なぜ違いが生じたのかを見る必要があります。

とりわけ8人説は、立件されなかった殺害供述を含むかどうかが大きな分かれ目です。

また、栗田の幼少期や性格を「犯罪の原因」と断定する説明にも慎重さが必要です。厳しい生育環境が語られることはありますが、それだけで後の連続殺人を説明することはできません。

栗田源蔵連続殺人事件が残したもの

この事件では、一つの犯行が終わった後にも、新たな被害が続きました。

1948年の静岡県。1951年の栃木県。そして千葉県のおせんころがし。最後は1952年の検見川町事件です。

場所も、被害者との関係も同じではありません。 それでも複数の事件には、相手の生命や尊厳を顧みず、自らの欲望や保身を優先する姿勢が繰り返し表れました。

なかでも、おせんころがし事件では母親と幼い子どもたちが襲われています。 母親と子ども2人が死亡し、1人だけが生き残った。

この事実は、事件を単なる「昭和の猟奇事件」として消費してはならない理由でもあります。

また、逮捕後の裁判は異例の展開をたどりました。千葉地裁で死刑。さらに別事件を審理した宇都宮地裁でも死刑。

死刑確定後には再審を求め、1956年の国会では死刑制度をめぐる議論の中で事件が取り上げられます。 連続殺人の重大さと、国家が死刑をどう適用するのか。

栗田源蔵による一連の事件は、発生から70年以上が過ぎた現在も、日本の犯罪史と刑事司法を振り返るうえで重い事例として残っています。

「7人」と「8人」は、裁判で認定された範囲の違い

国立国会図書館の新聞調査記録では、1952年8月に千葉地裁で死刑判決、1953年12月に宇都宮地裁で別の死刑判決が報じられ、1954年10月に栗田の死刑判決が確定したことが確認できる。

裁判資料を整理した資料では、1952年1月の女性2人殺害と、1948年から1951年の複数事件で計5人が死亡したとして、確定判決の対象を計7人と整理している。この5人の中にはおせんころがしで死亡した母親と子ども2人が含まれる。

一方、栗田が別の交際女性の殺害も供述したとの後年資料があり、その未起訴事件を加えて「8人殺害」とする文献がある。供述があったことと、起訴され裁判所が有罪と認定したことは同じではない。

同じ被告人へ2度の死刑判決が出た背景

栗田の事件が別々に審理されたのは、1952年1月の検見川町事件で早く起訴・判決が進んだ後に、過去の余罪が判明したためである。

千葉地裁は1952年8月、女性2人への犯罪で死刑を言い渡した。その後、栃木県小山町、おせんころがし、静岡県での事件などが宇都宮地裁で審理され、1953年12月にも死刑となった。

刑法上、先に確定した重い刑と後の事件をどう処理するかという手続上の事情はあるが、歴史資料では『一人の被告人へ地裁で2度死刑』という例として記録されている。

1959年の執行で刑事手続は終了した

栗田は死刑確定後、一部事件の自白や証拠を争って再審を求めたとされるが、確定判決は取り消されなかった。

1959年10月14日、宮城刑務所で死刑が執行された。本人死亡後に進行している再審や刑事裁判はなく、2026年現在、刑事手続は終了している。

事件を記録する際は、断崖の地名や加害者の人物像だけを強調せず、母子を含む被害者が各地で日常生活の中から襲われたこと、未起訴事件を確定事実へ混ぜないことが重要である。

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