東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件|4人の女児被害と責任能力をめぐる長期裁判、宮崎勤の死刑執行

公開日 2026年2月3日
最終更新 2026年8月28日

事件ステータス

発生年月日
1988年
都道府県
東京都
事件分類
大量殺人事件 / 性犯罪 / 誘拐・拉致事件
司法状況
確定
最終刑・処分
死刑

1988年8月から1989年6月にかけ、埼玉県と東京都で4歳から7歳の女児4人が相次いで連れ去られ、殺害された。被害者は今野真理さん、吉沢正美さん、難波絵梨香さん、野本綾子さん。事件は個別の誘拐殺人にとどまらず、遺族や報道機関への文書送付、別事件での現行犯逮捕、そして責任能力をめぐる長期裁判へ広がっていった。

宮崎勤は1989年7月、別の女児へのわいせつ事件で逮捕された後、一連の事件との関係が捜査された。東京地裁は1997年に完全責任能力を認めて死刑を言い渡し、東京高裁、最高裁も結論を維持した。判決訂正申立てが退けられた2006年2月に死刑が確定し、2008年6月17日、東京拘置所で執行された。

事件期間1988年8月22日~1989年6月6日
主な発生地域埼玉県入間市・飯能市・川越市、東京都江東区など
被害者今野真理さん(4歳)、吉沢正美さん(7歳)、難波絵梨香さん(4歳)、野本綾子さん(5歳)
被告人宮崎勤
逮捕の端緒1989年7月23日、別の女児へのわいせつ行為で現行犯逮捕
一審1997年4月14日、東京地裁が死刑
控訴審2001年6月28日、東京高裁が控訴棄却
上告審2006年1月17日、最高裁が上告棄却
死刑確定2006年2月、判決訂正申立て棄却後に確定
死刑執行2008年6月17日、東京拘置所

最初の失踪から10か月の間に、4人の女児が被害に遭った

最初の事件は1988年8月22日、埼玉県入間市で起きた。4歳の今野真理さんが行方不明となり、その後も同年10月に飯能市で7歳の吉沢正美さん、12月に川越市で4歳の難波絵梨香さんが相次いで姿を消した。1989年6月には東京都江東区で5歳の野本綾子さんが連れ去られた。

4件は発生日も場所も異なり、遺体や遺留物の発見経過も同じではない。連続事件として一括される一方、被害者一人ひとりには別々の日常と家族があり、それぞれ異なる捜査過程があった。事件全体を理解するには、4人を単なる『被害者4人』という数字にまとめず、複数の事件が連なっていった経過を見る必要がある。

遺骨と文書が遺族側へ届き、事件は新たな局面に入った

今野さんの失踪から半年近くたった1989年2月、遺族宅には骨片などが入った箱が置かれ、その後、朝日新聞社などへ『今田勇子』名義の文書が送られた。文書は一連の事件との関係をうかがわせる内容を含み、捜査と報道の双方で重要な出来事となった。

犯行を誇示するような文書の存在は大きく報じられたが、後の刑事裁判で中心となったのは、こうした印象的な行為だけではない。各事件を宮崎と結び付ける供述、遺棄場所や所持品、写真・映像資料などとの対応関係が検討され、刑事責任を問うための証拠として積み重ねられた。

1989年7月、別の女児への事件で宮崎勤が逮捕された

一連の殺人事件が解決へ向かう直接のきっかけは、4事件そのものではなかった。1989年7月23日、宮崎は東京都八王子市周辺で女児にわいせつ行為をしたとして現行犯逮捕された。逮捕後の取調べで別の女児殺害について供述し、供述に沿った捜索から遺体の一部が発見された。

ここから警視庁と埼玉県警は、前年から続いていた女児失踪・殺害事件との関連を本格的に追った。宮崎は順次、各事件について逮捕・起訴される。最初から4件すべてを対象に逮捕されたわけではなく、別事件の逮捕から一件ずつ捜査がつながっていった。

裁判最大の争点は、犯行時の責任能力だった

東京地裁での公判は1990年3月に始まり、死刑判決まで7年を要した。国会審議でも、宮崎の一審は38回の公判を重ねた長期裁判の例として取り上げられている。長期化の大きな理由の一つが、犯行時の精神状態と刑事責任能力をどう評価するかという問題だった。

精神鑑定の結論は一致しなかった。人格障害の範囲にとどまり判断能力・行動制御能力は保たれていたとする見解がある一方、解離症状や当時の『精神分裂病』を指摘し、心神耗弱と評価する鑑定も示された。診断名そのものではなく、犯行時に善悪を判断し、それに従って行動する能力がどの程度あったのかが法的な争点となった。

東京地裁は鑑定の一部を採用し、完全責任能力を認定した

1997年4月14日、東京地裁は宮崎に死刑を言い渡した。裁判所は、人格の偏りは認めながらも、犯行時に責任能力を失わせるほどの精神障害はなかったとする鑑定を採用し、完全責任能力があったと判断した。

裁判所は鑑定書だけを独立して評価したわけではない。女児への接近方法、複数回にわたって犯行を継続した経過、犯行後の証拠処理や文書送付など、具体的な行動も責任能力判断の材料となった。精神医学上の診断と、刑法上の責任能力は同じ概念ではないという点が、この裁判を理解する鍵になる。

東京高裁も一審を維持し、死刑を選択した

宮崎側は控訴し、責任能力などを改めて争った。2001年6月28日、東京高裁は一審の死刑判決を支持して控訴を棄却した。高裁も、犯行当時の宮崎に完全責任能力があったとする一審判断を覆さなかった。

量刑面でも、4人の幼い被害者が長期間にわたって相次いで殺害された結果、各犯行の態様、反復性、犯行後の行動などが総合的に評価された。事件の重大性と責任能力の双方が審理され、最終的に死刑を回避する事情はないと判断された。

最高裁の上告棄却後、判決訂正申立てを経て死刑が確定した

2006年1月17日、最高裁第三小法廷は宮崎側の上告を棄却した。弁護側は判決訂正を申し立てたが、同年2月に退けられ、死刑判決が確定した。逮捕から確定まで約16年半、一審開始からでも約16年に及ぶ刑事裁判だった。

『2006年1月17日に死刑確定』と簡略化されることもあるが、厳密には上告棄却後に判決訂正申立ての手続が残った。最終的な確定時期まで分けて記述すると、この事件が最高裁判断まで長期間を要したことがより明確になる。

2008年6月17日、東京拘置所で死刑が執行された

死刑確定から約2年4か月後の2008年6月17日、宮崎の刑は東京拘置所で執行された。同日にはほかの死刑確定者2人にも執行が行われた。宮崎については弁護人が再審請求の準備を進めている旨を法務省へ伝えていたことが国会質問でも取り上げられている。

ただし、再審請求準備がそのまま再審開始を意味するわけではない。執行時点で死刑判決は確定しており、刑事裁判上の有罪認定は覆っていなかった。2008年の執行により、宮崎に対する刑の執行は終了した。

事件を語る際、責任能力と『不可解な言動』は分けて考える必要がある

宮崎の言動や趣味、法廷での態度は長年にわたり大きく報じられ、事件そのものとは別に社会的なイメージが膨らんだ。しかし刑事裁判で問われたのは、人物像への印象ではなく、4件の犯罪事実と、それを行った時点で刑事責任を負える状態だったかという点だった。

複数の精神鑑定が異なる結論を示したこと自体は事実だが、それだけで責任能力が否定されたわけではない。東京地裁、東京高裁、最高裁の手続を通じて完全責任能力を前提とする死刑判決が維持され、最終的に確定した。

参考資料・出典

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