2017年10月6日午前5時10分ごろ、茨城県日立市の日立警察署に、両足にやけどを負った男が現れた。男は、まだ警察官や消防隊員が事件を把握していない段階で、自宅で妻と子ども5人を包丁で刺し、ガソリンをまいて火を付けたという趣旨を申告した。
男は土肥博文。事件当時は小松姓だった。妻・恵さん(33)、養女・夢妃さん(11)、長男・幸虎さん(7)、二男・龍煌さん(5)、三男・頼瑠さん(3)、四男・澪瑠さん(3)が死亡した。起訴後、土肥は心肺停止を伴う重い病状から低酸素性の脳障害を負い、事件の記憶を失う。裁判では、6人殺害の事実だけでなく、事件を思い出せない被告人に裁判へ参加する能力があるかが大きく争われた。
| 発生日 | 2017年10月6日 |
|---|---|
| 場所 | 茨城県日立市田尻町の県営住宅 |
| 被害 | 妻と3~11歳の子ども5人、計6人が死亡 |
| 被告人 | 土肥博文(事件当時は小松姓) |
| 一審 | 2021年6月30日、水戸地裁・死刑 |
| 控訴審 | 2023年4月21日、東京高裁・控訴棄却 |
| 最高裁 | 2025年2月21日、上告棄却 |
| 現在 | 死刑確定 |
離婚話の数日後、包丁・ロープ・ガソリンを購入
水戸地裁判決によると、土肥は2017年9月30日、妻の携帯電話で男性とのSNS上のやり取りを見つけ、関係を疑った。妻は交際を否定した上で離婚を求めた。10月2日には妻の母親や元雇用主、妻と親しい男性にも会い、離婚をめぐる話をしている。
10月3日ごろから、妻と子ども5人を殺害した後に自分も死ぬことを考えるようになった。翌4日、柳刃包丁、ロープ、ガソリンを購入した。最高裁は、この準備行動を踏まえ、犯行を突発的なものとは評価していない。
一度は家族との夕食で思いとどまり、深夜に再び決意した
10月5日、土肥は別居後に滞在する予定だった漫画喫茶へ行き、1か月分の宿泊代を支払った。子どもたちへのプレゼントも買い、帰宅後は家族と夕食を取った。午後9時ごろには「やっぱり家族はいいな」という気持ちが生じ、殺害と自死の考えはいったん薄らいだと認定されている。
ところが深夜、妻との離婚後の話し合いや、妻の母親から届いたメッセージをきっかけに再びいら立ちを強めた。午前3時ごろには購入した包丁とロープを前に思い悩み、午前4時40分ごろ、妻子6人を殺害することを決意した。
妻と子ども5人を刺した後、ガソリンをまいて放火
地裁と最高裁は、土肥が妻と養女を柳刃包丁で多数回、7歳、5歳、3歳、3歳の男児4人をそれぞれ数回刺したと認定した。その後、自らも死ぬことを考え、玄関付近の床などへガソリンをまいて火を付けた。
6人の死因は同一ではない。外傷、一酸化炭素中毒、両者の競合などに分かれた。地裁は、各被害者の受傷状況と焼損状況、土肥の供述を照合し、刺突と放火がいずれも土肥によるものと認定した。
放火罪は「現住建造物等放火」ではなく非現住建造物等放火
事件当時、妻子6人は住宅内にいた。それでも確定した罪名は非現住建造物等放火だった。地裁判決によれば、土肥は妻子を刺した後、全員が死亡したと思い、自宅を「現に人がいない建造物」と誤認して放火した。
実際には住宅内に生存していた者がいたため、結果だけを見れば人がいる建物への放火だった。しかし放火罪の故意は、行為者が当時どのように認識していたかで判断される。この点が事件名だけでは分かりにくい法的整理となっている。
事件発覚前の自首が、後に失われた記憶を補う重要な証拠になった
土肥が日立署へ出頭したのは午前5時10分ごろ。警察や消防が現場の事件を認知する前だった。下半身はトランクスと一部焼けた靴下だけで、両足にやけどを負っていた。そこで自宅で妻子を刺し、ガソリンをまいて火を付けたと自ら申告した。
この申告は、後に土肥が事件の記憶を失ったため大きな意味を持つ。裁判所は、事件を知らない警察官に対して凶器の種類や犯行態様を説明したこと、本人のやけどや服装が火災現場にいたことと整合することから、実行者が土肥であることを強く推認した。
捜査段階の供述は、防犯カメラや購入履歴と一致した
土肥は出頭後の取調べで、柳刃包丁やガソリンを購入した経緯、妻子を刺した状況、放火方法を相当程度詳しく供述していた。地裁は、その内容を供述だけで判断せず、防犯カメラ映像、店舗の販売履歴、自宅で発見された包丁などと照合した。
犯行状況についても、6人の受傷状況や住宅の焼損状況とおおむね一致した。事件記憶を失った後の公判供述ではなく、記憶障害が生じる前の供述と独立した客観証拠を組み合わせて犯人性が認定された。
起訴後の心肺停止で脳障害が残り、事件記憶を失った
土肥は起訴後の勾留中に心不全・肺高血圧症による心肺停止などの危篤状態となった。蘇生後、脳全体の萎縮や前頭葉機能の低下が確認され、裁判所が選任した鑑定医は低酸素状態の後遺症による器質性脳障害と評価した。
水戸地裁は、長時間の面談や反応を踏まえ、土肥が事件そのものに関する記憶を失っていることを認めた。弁護側も記憶障害を前提に、裁判を受ける能力が失われているとして公訴棄却などを求めた。
「事件を覚えていない」と「訴訟能力がない」は別と判断された
刑事訴訟法上の訴訟能力は、過去の事件を記憶しているかだけでは決まらない。現在の裁判手続を理解し、弁護人と意思疎通し、自分の利害を判断して防御に参加できるかが問題になる。
水戸地裁は、弁護人の適切な援助と裁判所の後見的支援があれば、土肥は手続や訴訟行為を理解し、意思疎通を図ることが十分可能だとした。そのため刑訴法314条の「心神喪失の状態」には当たらず、訴訟能力があると判断した。事件記憶の喪失は、その結論を左右しないと明記している。
弁護側は「記憶がない以上、犯人性も争う」と主張
一審で弁護側は、土肥に事件時の記憶がない以上、刺突と放火を実際に行った人物が土肥だったこと自体を争う立場を取った。さらに、仮に土肥が刺していても意識解離状態で殺意がなかった、死因は一酸化炭素中毒で刺突との因果関係がない、心神喪失または心神耗弱だったとも主張した。
地裁はこれらを一つずつ検討した。事件直後の自首、購入記録、現場の包丁、被害者の傷、焼損状況、捜査段階の詳細な供述から土肥の実行を認定し、精神鑑定から意識解離状態や責任能力の低下も否定した。
犯行時にはうつ病や意識解離状態ではなかったと認定
地裁が採用した精神鑑定では、土肥には離婚話による気分の落ち込みはあったが、うつ病の診断に必要な興味・喜びの喪失や活動性低下などが認められなかった。事件数日前にも人と会い、パチンコやパチスロへ出掛けるなどしていた。
意識解離についても、事件時だけ短時間に解離状態へ陥ったとする精神医学的根拠は乏しいとされた。数日間、殺害か別居かを考え続け、犯行直後には自ら警察署へ出頭して内容を具体的に話していることから、完全責任能力が認められた。
一審死刑、控訴審でも訴訟能力と量刑を維持
2021年6月30日、水戸地裁は土肥に死刑を言い渡した。6人の生命を奪った結果、就寝中の妻子を鋭利な包丁で繰り返し刺した態様、凶器やガソリンの準備、動機の身勝手さを重く評価した。
東京高裁は2023年4月21日、控訴を棄却した。控訴審でも、事件記憶が失われていることだけで重要な利害を判断する能力や相当な防御をする能力が欠けるとはいえないとして、一審の訴訟能力判断と死刑を維持した。
最高裁は訴訟能力を詳述せず、上告理由に当たらないとした
最高裁第二小法廷は2025年2月21日、上告を棄却した。最高裁判決は、弁護側の主張について憲法違反や判例違反をいう部分を含め、実質的には法令違反、事実誤認、量刑不当であり、刑訴法405条の上告理由には当たらないと整理した。
したがって最高裁判決自体は、一審のように訴訟能力の判断過程を詳しく書き直してはいない。その上で記録を調査しても職権で原判決を破棄すべき事情はないとし、東京高裁が維持した一審判決を是認した。
最高裁は有利な事情も挙げた上で死刑を維持
最高裁は、同種前科がないこと、犯行後間もなく自首して事実を詳細に認める供述をし、反省悔悟の言葉を述べていたことを、土肥に有利な事情として明示した。
それでも、6人の生命を奪った結果は極めて重大であり、妻と養女を多数回、幼い子ども4人も複数回刺した態様、二日間の葛藤を経た準備性、妻子を他の男性に取られたくないなどと考えた動機を踏まえ、死刑はやむを得ないとした。
2025年に死刑確定、2026年8月時点で執行公表はない
最高裁の上告棄却後、土肥の死刑は2025年に確定した。茨城新聞も同年末、土肥を確定死刑囚として整理している。
2026年8月27日までに、土肥の死刑が執行されたとの法務省発表はない。事件後に生じた脳障害と記憶喪失があっても、裁判所は現在の訴訟参加能力と事件当時の責任能力をそれぞれ別に審理し、確定判決へ至った。
記憶を失った時期は犯行後で、犯行時の責任能力とは切り離された
土肥の脳障害は、事件当日に存在していたものではない。2018年、勾留中に心不全などで心肺停止となった後に生じたもので、裁判所は事件後に発生した記憶障害として扱った。この時間関係は、責任能力と訴訟能力を区別するうえで重要になる。
犯行時の責任能力は2017年10月6日に善悪を判断し行動を制御できたかという問題であり、訴訟能力はその後の公判時点で手続を理解して防御できるかという問題になる。同じ「精神・脳の状態」を扱っていても、判断時点と法律上の問いは異なっていた。
自首は犯行発覚前だったが、死刑回避を決める事情にはならなかった
土肥は火災が警察や消防に認知される前に自ら警察署へ出頭した。最高裁も、犯行後間もなく自首し、捜査段階で事実を詳細に認めて反省の言葉を述べていたことを、被告人に有利な事情として明示している。
それでも最高裁は、6人を続けざまに殺害した結果、幼い子どもを含む被害者への強固な殺意、事前準備、動機を総合すると死刑はやむを得ないとした。自首したという一事情だけで量刑が決まるわけではないことが判決から分かる。
2025年最高裁判決は、死刑量刑を明示的に再評価した
最高裁判決は上告理由の多くを刑訴法405条の上告理由に当たらないと整理した後、記録を調査して職権破棄の必要もないとした。そのうえで、死刑量刑の中心となる6人殺害について、結果、態様、準備、動機、遺族感情、有利な事情を改めて列挙している。
最高裁の公式『主要な裁判』一覧でも、本件は「死刑の量刑が維持された事例(日立妻子6人殺害事件)」として掲載されている。最終審で新たな犯人性が認定されたのではなく、一、二審の有罪・死刑判断を最高裁が維持したという位置づけになる。
参考資料・出典
- 水戸地方裁判所 2021年6月30日判決
- 最高裁判所第二小法廷 令和5年(あ)第541号 2025年2月21日判決
- 最高裁判所「最高裁において関与した主要な裁判(三浦裁判官・令和7年)」
- LuckyFM茨城放送「妻子6人殺害、二審も死刑」2023年4月21日
- LuckyFM茨城放送「妻子6人殺害、死刑確定へ」2025年2月21日
- 茨城新聞「2025 茨城県内10大ニュース・日立妻子6人殺害」
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