1954年3月10日、静岡県島田市で6歳の佐野久子さんが幼稚園から連れ出され、3日後に遺体で発見された。事件から約2カ月後、別件で身柄を拘束された赤堀政夫さんが取り調べを受け、自白したとして起訴された。
赤堀さんには死刑が確定したが、犯行を直接裏付ける物証は乏しかった。確定判決を支えた自白と法医学鑑定は、長い再審請求の中で信用性を失っていく。1989年1月31日、静岡地裁は再審で無罪を言い渡した。身柄拘束から1万2668日、34年8カ月後の釈放だった。
島田事件の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事件発生 | 1954年3月10日 |
| 場所 | 静岡県島田市 |
| 被害者 | 佐野久子さん(当時6歳) |
| 元被告人 | 赤堀政夫さん(事件当時25歳) |
| 一審 | 1958年5月23日・死刑 |
| 控訴審 | 1960年2月17日・控訴棄却 |
| 最高裁 | 1960年12月15日・上告棄却、死刑確定 |
| 再審開始 | 1986年5月30日 |
| 再審判決 | 1989年1月31日・無罪 |
| 拘禁期間 | 1万2668日 |
佐野久子さんが幼稚園から連れ出され、3日後に発見された
1954年3月10日、島田市内の幼稚園に通っていた佐野久子さんが行方不明になった。3日後、大井川周辺の雑木林で殺害された状態で見つかり、警察は誘拐・殺人事件として捜査した。
当初から赤堀さんを指す決定的な物証が現場に残っていたわけではない。捜査が赤堀さんへ向かったのは事件から約2カ月後。別件の窃盗容疑で身柄を拘束された後、島田事件について集中的な取り調べを受けることになった。
別件で拘束された赤堀政夫さんが取り調べで自白した
赤堀さんは取り調べの中で久子さん殺害を認める供述をしたとして、事件の被告人になった。しかし公判に入ると犯行を否認し、自白は信用できないと争った。
後年の国会審議でも、島田事件は捜査段階で自白した後に再審無罪となった代表的事件として取り上げられている。東京弁護士会の資料は、署長公舎の一室で連日取り調べられ、誘導によって内容が変遷する自白調書が作られたとする日弁連資料を紹介している。
有罪の柱になったのは自白と法医学鑑定だった
確定審では、自白で語られた犯行経過と久子さんの傷が整合するという法医学上の評価が、自白を補強する重要な根拠になった。自白が具体的であるだけでなく、遺体の所見によって裏付けられていると評価されたためである。
一方、赤堀さんと犯行現場を直接結び付ける物証は乏しかった。自白と法医学鑑定が互いを支える証拠構造だったことが、後の再審で大きな意味を持つ。
1958年に死刑判決、1960年に最高裁で確定
静岡地裁は1958年5月23日、赤堀さんに死刑を言い渡した。東京高裁は1960年2月17日に控訴を棄却し、最高裁も同年12月15日に上告を棄却。死刑判決が確定した。
25歳で身柄を拘束された赤堀さんは、死刑確定者として収容されながら無実を訴え続けた。再審請求は一度では終わらず、4回目の請求が確定判決を動かすことになる。
死刑確定後も再審請求は繰り返された
最高裁で死刑が確定した後、赤堀さんは1961年から再審を求め続けた。再審は確定した有罪判決を例外的にやり直す制度であり、通常の控訴・上告とは異なる。新たな証拠が確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせるかが中心となる。
一度確定した死刑判決を覆すまでには複数回の請求が必要だった。赤堀さんの事件では、取調べで作られた自白の内容を、遺体の所見や物証と独立して照らし直す作業が続き、第4次請求でようやく再審開始へ向かう転機が訪れた。
第4次再審請求で東京高裁が審理を差し戻した
第4次再審請求は静岡地裁でいったん棄却された。しかし1983年、東京高裁はその決定を取り消し、静岡地裁へ審理を差し戻した。自白に客観的事実と合わない部分があることや、確定判決を支えた証拠を再検討する必要性が問題になった。
差し戻し後の静岡地裁は新旧証拠を検討し、1986年5月30日に再審開始を決定した。検察側の即時抗告も退けられ、確定した死刑判決を公判で改めて審理することになった。
再審で、自白と傷の医学的評価を切り離して検討した
再審では、自白が具体的に見えるかではなく、客観的証拠と本当に一致しているのかが改めて問われた。久子さんの傷が自白どおりの方法や順序で生じたのか、凶器とされた石が実際に犯行に使われたといえるのかなどが検討された。
確定審では自白を補強するとされた法医学鑑定にも疑問が生じた。自白と鑑定を一方で他方を補う関係として扱えなくなると、赤堀さんを犯行へ結び付ける証拠の強さは大きく低下した。
「秘密の暴露」とされた内容にも疑問が残った
自白の信用性を支える事情として、捜査機関がそれまで知らなかった事実を被疑者だけが述べた「秘密の暴露」があるかどうかは重要になる。島田事件でも、凶器とされた石など、自白で示された内容が本当に犯人だけが知り得た情報だったのかが争われた。
再審判決は、自白に客観的事実との不一致や変遷があり、凶器とされた石にも疑問が残るとして信用性を否定した。自白以外に赤堀さんの犯行を十分に裏付ける証拠もないと判断した。
再審公判でも検察は有罪を求め、証拠をもう一度争った
再審開始は、その時点で無罪が確定したことを意味しない。やり直しの公判では検察・弁護側が改めて証拠を提出し、自白の信用性や法医学上の争点について審理が続いた。赤堀さんは再審公判でも無実を主張した。
最終的に静岡地裁が問題にしたのは、自白を信用できるか、そして自白を外した場合に有罪を支えられる証拠が残るかという点だった。再審開始決定だけで結論を先取りせず、公判で検討した結果として無罪判決へ至った。
1989年1月31日、静岡地裁が再審無罪を言い渡した
静岡地裁は1989年1月31日、赤堀さんに無罪を言い渡した。共同通信の回顧記事でも、判決理由の核心は「自白の信用性は乏しい」という判断だったと伝えられている。
赤堀さんは同日釈放された。東京弁護士会が示す拘禁期間は1万2668日。年数にすると34年8カ月に及ぶ。検察は控訴せず、再審無罪が確定した。
無罪判決は「別の犯人が判明した」という意味ではない
再審無罪によって司法上確定したのは、赤堀さんを佐野久子さん殺害の犯人として処罰することができないという点である。別の人物が逮捕・起訴され、その人物の有罪が確定したわけではなかった。
この区別は冤罪事件を扱ううえで重要になる。赤堀さんの死刑判決が誤りとして覆ったことと、1954年の殺害事件について真犯人が司法判断で特定されたことは別の問題であり、後者は解決していない。
死刑確定後に再審無罪となった4事件の最後の一件
島田事件は、免田事件、財田川事件、松山事件と並び、死刑が確定した後の再審で無罪となった「死刑4再審」の一つである。4事件はいずれも1980年代に再審無罪へ至り、島田事件が最後の一件となった。
国会審議でも、再審無罪事件で自白の信用性、初動捜査、鑑定の信用性が問題になった例として議論されている。島田事件は、死刑判決の結論だけではなく、その判断を支えた証拠を後から検証する難しさを示す事件でもある。
赤堀政夫さんは2024年に94歳で死去
無罪確定後、赤堀さんは死刑制度の廃止などを訴える活動を続けた。2024年2月22日、94歳で死去した。25歳で身柄を拘束され、59歳で無罪となった後の人生も、島田事件と切り離されたものではなかった。
無罪になったのは赤堀さんであり、1954年に佐野久子さんを殺害した人物が別に特定され、有罪判決を受けたわけではない。赤堀さんへの有罪認定が覆った後、久子さん殺害事件そのものは真犯人が司法上確定しないまま残った。
2026年、61年続いた支援団体が解散を決めた
赤堀さんを支えてきた島田事件対策協議会は、再審無罪後も再審制度の改善などを訴えて活動を続けた。静岡新聞・SBSの2026年4月報道によると、赤堀さんの死去と活動記録の冊子完成を区切りとして、団体は解散を決めた。
支援活動は61年に及んだ。再審無罪から37年後の2026年になっても、島田事件は過去の判決だけで完結せず、冤罪救済や再審制度をめぐる議論の中で参照され続けている。
参考資料・出典
- 国会会議録検索システム「第164回国会 衆議院法務委員会 第12号」
- 東京弁護士会「代用監獄Q&A」
- 共同通信「『島田事件』で再審無罪 37年前の1月31日」
- 静岡朝日テレビ「島田事件の赤堀政夫さん死去」
- 静岡新聞SBS「島田事件の支援団体が解散決定」
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