1983年7月15日、熊本地裁八代支部は免田栄さんに無罪を言い渡した。免田さんはその日まで、死刑確定者として30年以上拘禁されていた。戦後日本で、死刑判決が確定した人物が再審で無罪となった最初の事件だった。
そこへ至る道は一度では開かなかった。1956年、熊本地裁八代支部はいったん再審開始を認めたが、1959年に福岡高裁が取り消した。免田さんは請求を重ね、第6次再審請求で1979年に再び開始決定を得る。1980年に最高裁が検察側の特別抗告を棄却し、ようやく再審公判が開かれた。
| 事件発生 | 1948年12月29日深夜〜30日未明 |
|---|---|
| 場所 | 熊本県人吉市 |
| 被害 | 夫婦2人死亡、娘2人重傷 |
| 一審 | 1950年3月23日 熊本地裁八代支部・死刑 |
| 最高裁 | 1951年12月25日 上告棄却 |
| 死刑確定 | 1952年1月5日 |
| 第3次再審 | 1956年開始決定、1959年福岡高裁が取消し |
| 第6次再審 | 1979年福岡高裁が開始決定 |
| 開始確定 | 1980年12月11日 最高裁が検察側特別抗告棄却 |
| 再審無罪 | 1983年7月15日 |
| 刑事補償 | 9,071万2,800円 |
1948年、一家4人が襲われ、夫婦2人が死亡した
1948年12月29日深夜から30日未明、熊本県人吉市の住宅で一家4人が襲われ、夫婦2人が死亡し、娘2人が重傷を負った。現金も奪われ、強盗殺人・強盗殺人未遂事件として捜査が始まった。
翌1949年1月、免田栄さんは別件窃盗で身柄を拘束され、その後、一家4人殺傷事件について追及された。捜査段階では犯行を認める供述調書が作られたが、公判では犯行を否認し、事件当夜は別の場所にいたとアリバイを主張した。
自白を中心に有罪認定が組み立てられ、死刑が確定した
一審の熊本地裁八代支部は1950年3月23日、免田さんに死刑を言い渡した。福岡高裁は1951年3月19日に控訴を棄却し、最高裁も同年12月25日に上告を棄却した。判決は1952年1月5日に確定した。
後の再審で焦点となるのは、この有罪認定を支えた自白とアリバイ評価だった。政府は後年、免田事件など死刑再審無罪事件で自白の信用性を含む問題が指摘されたことを認め、客観証拠の収集や自白の裏付け捜査を徹底する必要があると国会答弁で述べている。
1956年、第3次再審請求で一度は「裁判をやり直す」決定が出た
死刑確定後、免田さんは再審請求を続けた。第3次請求では1956年8月10日、熊本地裁八代支部が再審開始を決定した。確定判決をそのまま維持できるかに疑問があるとして、事件をもう一度公開の法廷で審理する道が開かれた。
この決定は、後に最高裁が示す「疑わしきは被告人の利益に」という再審判断の考え方を先取りしたものとして「西辻決定」とも呼ばれる。しかし、再審公判はこの段階では始まらなかった。
1959年、福岡高裁が開始決定を取り消した
検察側の即時抗告を受けた福岡高裁は1959年4月15日、1956年の再審開始決定を取り消し、請求を退けた。免田さんは再び死刑確定者の立場へ戻り、拘禁が続いた。
一度は裁判をやり直す必要があると判断されながら、その扉が閉じた。免田事件で救済まで長い時間を要した背景には、再審開始の基準だけでなく、開始決定に対する検察官の不服申立てによって手続が長期化した問題もあった。
第6次請求では地裁が棄却、高裁が逆転して再審開始を決めた
免田さんは請求をやめなかった。1972年に申し立てた第6次再審請求について、熊本地裁八代支部は1976年4月30日に棄却した。
ところが即時抗告審の福岡高裁は1979年9月27日、原決定を取り消して再審開始を認めた。検察側は最高裁へ特別抗告したが、1980年12月11日に棄却され、再審開始が確定した。免田さんが再び開始決定を得るまで、最初の開始決定から23年が過ぎていた。
再審ではアリバイと自白の信用性が正面から見直された
再審公判では、事件当夜の免田さんの行動、自白調書が作られた経過、自白に記された逃走経路や時間関係が客観的事実と整合するかが改めて検討された。
確定審では有罪を支えた自白が、再審では同じ重さを持たなかった。福岡高裁の再審開始決定は、逃走経路をめぐる供述の不自然さなどを指摘し、確定判決の事実認定へ合理的な疑いが生じていると判断した。
1983年7月15日、死刑事件について無罪判決
熊本地裁八代支部は1983年7月15日、住居侵入、強盗殺人、強盗殺人未遂について免田さんに無罪を言い渡した。判決は事件当夜のアリバイを認め、自白の信用性を否定した。
免田さんはその日のうちに釈放された。検察側は控訴を断念し、無罪が確定した。戦後、死刑判決が確定した人物について再審無罪となった最初の例であり、その後、財田川事件、松山事件、島田事件でも死刑確定判決が再審で覆ることになる。
「無罪になった事件」と「別件窃盗の有罪」を混同しない
再審無罪の対象は、一家4人殺傷事件に関する住居侵入・強盗殺人・強盗殺人未遂だった。免田さんには別件窃盗について懲役6月・執行猶予1年の有罪部分があり、これまで含めてすべての犯罪について無罪になったわけではない。
免田事件を「死刑判決が再審で無罪になった事件」と呼ぶ場合、何の罪について無罪が確定したのかを明確にする必要がある。再審が覆したのは、免田さんを死刑確定者にした一家4人殺傷事件の有罪認定だった。
拘禁は34年を超え、刑事補償は9,071万2,800円
免田さんは逮捕から再審無罪まで34年以上、身柄を拘束された。1988年の参議院法務委員会で法務省は、免田事件で支払われた刑事補償の合計額を9,071万2,800円と説明している。
刑事補償は、無罪が確定した者が受けた身体拘束に対して国が支払う制度である。金額が確定しても、死刑執行の可能性を抱えながら失われた数十年の生活そのものが戻るわけではない。
事件は、再審での証拠開示と自白偏重の問題を残した
国会答弁によると、免田事件の第3次再審請求では、熊本地裁八代支部の要請に応じて検察官が公判未提出記録を提出した。確定審で表に出なかった資料が、再審請求の審理に入ることで開示された事例でもある。
政府は免田事件などの再審無罪判決を受け、自白の信用性を十分に吟味し、客観的証拠の収集と裏付け捜査を徹底する必要があると答弁した。再審で無罪が出たことだけでなく、なぜ確定死刑判決まで進んだのかという捜査・公判の構造が後の刑事司法へ課題を残した。
釈放後も、免田栄さんは死刑と冤罪について発言を続けた
免田さんは社会復帰後、各地で自身の経験を語り、冤罪防止や死刑制度の問題を訴えた。獄中で書いた書簡や裁判資料の多くも保存され、事件の検証資料として整理されている。
2020年12月5日、免田さんは95歳で亡くなった。NHKは、亡くなる直前に膨大な獄中資料を地元紙の元記者へ託していたと伝えている。再審無罪から37年後まで、免田事件は本人の人生から切り離されることのない問題だった。
参考資料・出典
・京都弁護士会「誤判が問題となった主な事件」
・衆議院「冤罪における再審請求と証拠開示および国際人権規約の実施状況に関する質問に対する答弁書」
・国会会議録検索システム「第112回国会 参議院法務委員会 第3号」
・日本弁護士連合会「死刑判決が確定したえん罪事件の例」
・NHK「“無実の死刑囚”の遺言 ~免田栄 えん罪事件~」
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