1997年3月、東京・渋谷の円山町で東京電力社員の渡辺泰子さん(当時39歳)が死亡しているのが見つかった。捜査線上に浮かんだのは、現場近くに住んでいたネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリさんだった。だが、この事件の司法判断は一方向には進まない。
東京地裁は2000年4月に無罪。東京高裁は同年12月、その判断を覆して無期懲役とし、2003年に最高裁で確定した。ところが再審請求後、検察側が保管していた試料のDNA型鑑定からマイナリさんとは別人の型が検出される。2012年、東京高裁は再審を開始し、最終的に検察官の控訴を棄却。一審無罪が確定した。
| 事件発生 | 1997年3月 |
|---|---|
| 発生場所 | 東京都渋谷区円山町 |
| 被害者 | 渡辺泰子さん(当時39歳、東京電力社員) |
| 起訴された人物 | ゴビンダ・プラサド・マイナリさん |
| 一審 | 2000年4月14日・東京地裁 無罪 |
| 控訴審 | 2000年12月・東京高裁 無期懲役 |
| 上告審 | 2003年10月・最高裁が上告棄却、有罪確定 |
| 再審開始 | 2012年6月7日・東京高裁 |
| 再審判決 | 2012年11月7日・検察官控訴棄却、一審無罪が確定 |
| 現在 | マイナリさんは無罪。実際の加害者は特定されていない |
遺体が見つかったのは事件から約10日後だった
渡辺さんは1997年3月上旬、渋谷区円山町の建物内で死亡したとみられ、同月19日に遺体が発見された。死因は絞殺とされ、室内には複数の遺留物が残っていた。事件当初から、現場に誰が出入りし、どの遺留物が犯行時のものなのかをどう評価するかが捜査と裁判の中心になった。
渡辺さんの勤務先や私生活は当時の報道で大きく取り上げられたが、再審で決定的になったのは人物像ではない。現場と遺体から採取され、長期間保管されていた生物学的試料だった。後年のDNA鑑定は、最初の捜査が置いていた前提そのものを揺さぶることになる。
マイナリさんとの接点はあったが、直接証拠はなかった
マイナリさんは現場付近に住み、渡辺さんと以前に接触していたことが捜査で確認されていた。現場に残された使用済みコンドームからマイナリさんに結び付く体液が検出されたことも、検察側が犯人性を主張する重要な事情になった。
しかし、犯行を目撃した人物や犯行そのものを記録した資料はなく、マイナリさんは一貫して犯行を否認した。コンドームが事件当夜の接触を示すのか、それ以前の接触に由来するのか。現場に存在したことを示す事情と、殺害行為を実行したことを示す証拠は同じではなかった。
2000年4月、東京地裁は「合理的な疑い」が残るとして無罪
東京地裁は2000年4月14日、マイナリさんに無罪を言い渡した。状況証拠を積み上げても、殺害を実行した人物がマイナリさんだと合理的な疑いなく認定するには足りないという判断だった。刑事裁判では、被告人が「怪しい」だけで有罪にはできず、検察側が犯罪事実を立証しなければならない。
一審判決はその原則に沿って、遺留物の意味や事件当夜の行動を慎重に評価した。ところが無罪で刑事手続から解放されるはずだったマイナリさんは、検察官の控訴後に再び身柄を拘束される。裁判の結論も数か月後に反転した。
東京高裁は一審を覆し、無期懲役を言い渡した
2000年12月、東京高裁は一審の証拠評価を退け、マイナリさんを無期懲役とした。控訴審は、現場の遺留物、渡辺さんとの接点、事件当時の状況などを総合して犯人性を認定した。無罪から無期懲役へ。同じ証拠群を前に一審と二審で結論が正反対になった。
マイナリさん側は上告したが、最高裁は2003年10月に上告を棄却した。これにより東京高裁の無期懲役判決が確定する。刑事裁判としてはいったん終結したものの、弁護側は無実を主張し続け、2005年に東京高裁へ再審を請求した。
一審無罪の直後にも、マイナリさんの身体拘束は続いた
東京地裁の無罪判決が出れば、通常はその事件について被告人を拘束し続ける根拠は失われる。本件では検察が控訴し、東京高裁は2000年5月、記録送付を受けた後にマイナリさんを再勾留した。東京弁護士会や神奈川県弁護士会は、後の再審無罪を受け、この無罪判決後の身柄拘束を問題点として挙げている。
その後、逆転有罪が確定して服役が続き、再審開始まで長期間の拘束となった。再審無罪後の第二東京弁護士会の声明は、起訴以来15年6か月余りでようやく無罪が確定したと振り返っている。本件は判決内容だけでなく、無罪判決に対する検察官上訴と、その間の身体拘束をどう考えるかという刑事手続上の問題も残した。
再審の鍵になったのは「新しい鑑定技術」だけではなく証拠開示だった
DNA鑑定の精度が上がっても、鑑定対象となる試料が残され、再検査できなければ再審の新証拠にはならない。本件では再審請求後、検察側から開示された証拠を対象にDNA型鑑定が実施され、第三者の型が浮かび上がった。保管されていた試料と、その存在が弁護側に開示されたことの両方が必要だった。
神奈川県弁護士会は、当初の見立てに沿う状況証拠を積み上げる一方、それに反する証拠の開示が消極的だった点を問題視した。第二東京弁護士会も、証拠開示、無罪判決後の勾留、DNA鑑定を本件の制度的な論点として挙げている。再審が示したのは、科学鑑定の進歩だけでなく、捜査機関が持つ資料を後から検証できる状態で保存し、必要な場面で開示することの重さだった。
再審を動かしたのは、検察側が保管していたDNA試料だった
再審請求の過程で、被害者の体内から採取された試料などについて新たなDNA型鑑定が行われた。鑑定された精液のDNA型はマイナリさんと一致せず、現場に残された体毛の型とは一致した。つまり、事件現場にはマイナリさんとは別の男性に由来する生物学的資料が存在していたことになる。
さらに、検察側が有罪主張を補強するため提出した被害者の爪の付着物からも、この第三者と同じDNA型が検出された。神奈川県弁護士会の声明によれば、検察側はこれを受けて方針を転換し、再審の第1回公判で「被告人は無罪」との意見を述べた。
第三者DNAは「別の男性がいた」だけでは終わらなかった
DNA型が別人だったというだけなら、犯行と無関係な接触によって残った可能性も検討しなければならない。本件で重要だったのは、第三者由来の型が複数の試料から現れ、事件当時に別の男性が関与した可能性を具体的に示した点にある。
好書好日の書評では、被害者体内の精液を採取したガーゼから出たDNA型がマイナリさんと一致せず、現場の体毛とは一致したことが紹介されている。再審開始決定も、こうした鑑定結果などを踏まえ、マイナリさんを犯人とするには合理的な疑いが残ると判断した。
2012年6月、再審開始と刑の執行停止が同時に決まった
東京高裁は2012年6月7日、再審開始と刑の執行停止を決定した。東京弁護士会の声明によれば、再審請求から7年を経ての判断だった。マイナリさんは長期間にわたる身体拘束から解放され、その後ネパールへ帰国した。
検察側は再審開始決定に異議を申し立てたものの、東京高裁の別の合議体が退けた。その後、検察は特別抗告を行わず、再審開始が確定した。ここで確定したのは「無罪」そのものではなく、有罪確定判決を改めて審理する再審を開くことだった。
異議申立てが棄却されたのは2012年7月31日だった。第二東京弁護士会は、この決定が有罪立証を「合理的疑いを超えて」行うという刑事裁判の原則に立脚したものだと評価している。再審開始決定から無罪判決までの手続でも、検察がどの段階まで有罪主張を維持するのか、確定判決を見直すために新証拠をどう評価するのかが問われた。
再審は「二審をやり直す」形で開かれた
本件で再審の対象となったのは、東京地裁の一審無罪に対する検察官控訴を審理した控訴審だった。したがって、2012年11月7日の東京高裁判決は、単純に新たな一審無罪を言い渡したのではない。検察官の控訴を棄却し、2000年4月14日の東京地裁無罪判決を維持した。
神奈川県弁護士会の声明では、検察側が同日に上訴権を放棄したため、一審無罪がその日のうちに確定したと整理されている。衆議院の質問主意書にも、再審第1回公判で検察官が「被告人以外が犯人である可能性を否定できず、被告人は無罪」と意見を述べた経過が記録されている。
「一審無罪→逆転有罪→再審無罪」で変わったのは証拠の見え方だった
裁判の流れだけを並べると、裁判官の評価が揺れた事件に見える。だが再審では、従来の状況証拠を読み直しただけではなく、科学技術の進歩によって新たに得られたDNA型という証拠が加わった。これが確定有罪判決の前提を崩した。
一方で、DNA鑑定を絶対視すればよいわけでもない。重要なのは、試料がどこから採取されたのか、他の証拠とどう結び付くのか、別の説明が合理的に残るのかを検討することになる。本件は、科学的証拠の更新と証拠開示が再審に与える影響を具体的に示した事件でもある。
無罪確定後も、渡辺さんを殺害した人物は特定されていない
2012年11月の再審判決によって確定したのは、マイナリさんを強盗殺人の犯人として処罰できないということだった。第三者のDNA型が示されたからといって、そのDNAの持ち主が刑事裁判で犯人と認定されたわけではない。
警視庁は再捜査に入ったと報じられたが、2026年8月26日時点で新たな人物が起訴され、有罪判決を受けたという公的な到達点は確認されていない。マイナリさんの無罪と、渡辺さんを殺害した人物の特定は別の問題である。事件は、冤罪が解消された一方で殺害そのものは未解決という状態に残っている。
無罪確定後、国から6800万円の刑事補償
再審無罪が確定した後、マイナリさんには刑事補償法に基づき6800万円が支払われた。2015年の衆議院法務委員会でも、約15年間に及ぶ身体拘束と6800万円の補償が、再審制度と証拠開示の問題を検討する具体例として取り上げられている。
刑事補償は、誰か個人の違法行為を認定して損害賠償を命じる国家賠償とは制度が異なる。無罪となった人が受けた抑留・拘禁や刑の執行について、法律の定めに基づいて国が補償する仕組みである。
2017年の来日でも語られた、無罪確定後に残った影響
マイナリさんは2012年の釈放後にネパールへ帰国し、2017年11月、無罪確定後初めて日本を再訪した。第二東京弁護士会によると、本人はネパールで生活する一方、長期間の拘束によるPTSDに今も悩んでいると語った。
刑事裁判上の無罪は、失われた時間や健康状態まで元に戻すものではない。逆転有罪判決が確定して服役した後、DNA鑑定で無罪へ至ったこの事件では、再審制度だけでなく、無罪判決後の再勾留、証拠保存・開示、誤判後の補償までが一つの連続した司法問題として残った。
国会では「42点の新たな証拠開示」も再審制度の論点になった
2015年の国会審議では、再審請求の過程で検察側から多数の新たな証拠が開示され、その中に第三者由来の生体資料に関する証拠が含まれていたことが議論された。弁護側からは、確定判決後まで重要資料へアクセスできなかった証拠開示の在り方が問題視された。
政府は、通常審で本来開示すべき証拠を意図的に隠したと裁判所が認定したものではないとの立場を示している。だからこそ本件から読み取れる確定的な教訓は、検察の意図を推測することではなく、無罪方向の可能性を持つ証拠も後から検証できる形で保存し、再審手続で適切に利用できる制度の重要性にある。
参考資料・出典
- 東京弁護士会「東京電力女性社員殺害事件の再審開始決定に関する会長声明」
- 第二東京弁護士会「東電OL殺人事件再審開始決定に関する会長声明」
- 第二東京弁護士会「東電女性社員殺害事件 再審 控訴棄却判決にあたっての会長声明」
- 神奈川県弁護士会「いわゆる『東電OL殺人事件』の再審判決に関する会長声明」
- 衆議院「いわゆる東京電力女性社員殺害事件で無期懲役とされた人物の無罪が明らかになった件に関する再質問主意書」
- 衆議院「同質問に対する答弁書」
- 衆議院法務委員会 2015年7月3日・刑事補償6800万円等の審議
- 第二東京弁護士会「マイナリ氏・妻ラダ氏が来会」2017年11月
関連事件
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