2021年7月、東京地検は横浜市の機械メーカー「大川原化工機」と幹部らに対する起訴を取り消した。社長らはすでに外為法違反容疑で逮捕され、長期間勾留されていた。元顧問の相嶋静夫さんは勾留中に胃がんが見つかり、起訴が取り消される前の2021年2月に72歳で死亡している。
刑事裁判は無罪判決で終わったのではない。検察が公判開始前に公訴を取り消し、裁判所が公訴棄却を決定した。だが、その後の国家賠償訴訟では、東京高裁が逮捕や起訴の一部を違法と認定。国と東京都が上訴しなかったため、約1億6600万円の賠償を命じる判決が2025年に確定した。
| 発端 | 噴霧乾燥機の輸出が外為法上の規制対象に当たるとして捜査 |
|---|---|
| 逮捕 | 2020年3月・大川原正明社長ら3人 |
| 起訴 | 中国向け輸出事件。後に韓国向け輸出事件でも追起訴 |
| 元顧問 | 相嶋静夫さん。勾留中に胃がんが判明し、2021年2月死亡 |
| 公訴取消し | 2021年7月30日・東京地検が公訴取消しを請求 |
| 刑事手続の終了 | 2021年8月2日・東京地裁が公訴棄却 |
| 国賠控訴審 | 2025年5月28日・東京高裁、逮捕や起訴の一部を違法と認定 |
| 国賠確定 | 2025年6月・国・東京都が上訴せず確定 |
| その後 | 2025年に警察・最高検が検証。2026年には相嶋さん遺族が裁判官の判断をめぐる別の国賠訴訟を提起 |
争点は、噴霧乾燥機が「内部を滅菌・殺菌できる装置」かどうかだった
大川原化工機が製造していたのは、液体を霧状に噴射し、熱風で乾燥させて粉体にする噴霧乾燥機だった。捜査当局は、この装置が輸出貿易管理令上の規制対象に該当し、経済産業大臣の許可なく中国や韓国へ輸出したとして事件化した。
規制該当性の核心は、装置を定置した状態で内部を滅菌または殺菌できる性能を備えているかだった。単に高温の熱風を使う装置であるだけでは足りない。装置内部に必要な温度へ達しない場所が残るなら、規制要件を満たさない可能性が生じる。ここが後に捜査の前提を崩す技術的論点となった。
2020年3月、社長ら3人を逮捕――否認したまま身柄拘束が続いた
警視庁公安部は2020年3月11日、大川原正明社長、元取締役の島田順司さん、元顧問の相嶋静夫さんの3人を外為法違反容疑で逮捕した。まず2016年6月の中国向け輸出が問題とされ、起訴後には2018年2月の韓国向け輸出でも再逮捕・追起訴された。
3人は規制対象ではないと主張し、事件の前提を争った。否認したまま勾留が続き、大川原社長と島田さんは保釈まで約11か月身柄を拘束された。相嶋さんはそれより先に重い病気が判明することになる。
捜査側の想定と合わない「低温部分」の存在が、事件の土台を揺らした
会社側は、装置内部には加熱しにくい部分があり、規制が想定する滅菌・殺菌を行える構造ではないと反論していた。国家賠償訴訟で東京高裁は、逮捕前から警察が規制該当性を否定する従業員の説明を把握していたにもかかわらず、通常期待される追加調査を十分に行わなかったと評価した。
東京高裁判決の要旨では、公安部が各逮捕を行った時点で、犯罪の嫌疑を支える合理的な根拠が客観的に欠けていたことが明らかだったとされた。後から証拠が弱くなったというだけではなく、逮捕時点で立件に不利な事情を十分検討していなかったことが違法判断につながった。
取調べでは、本人の真意と異なる内容の弁解録取書に署名させたと認定
国賠控訴審では、逮捕の適法性だけでなく、元取締役に対する取調べの方法も問題になった。東京高裁は、警察が偽計的な方法を用い、本人が了解しておらず真意とも異なる捜査側の見立てに沿った弁解録取書へ署名・指印させたとして、国家賠償法上違法と認定した。
この点は、単なる書類上の表現の食い違いではない。被疑者が何を認め、何を否定したのかを記録する手続自体の信用性に関わる。高裁は自由な意思決定を阻害する態様だったと明示し、公安部の取調べを違法評価の対象とした。
相嶋静夫さんは勾留中に胃がんが判明、保釈されないまま死亡
相嶋さんは勾留中の2020年秋に胃がんが見つかった。弁護側は繰り返し保釈を請求したが認められず、勾留執行停止を経て入院した後、2021年2月7日に72歳で死亡した。起訴された立場のまま亡くなり、刑事裁判で有罪・無罪の実体判断を受けることはなかった。
後の最高検検証は、この身柄対応も独立した問題として扱った。生命に関わる重い病状を把握できる状況では、弁護人や拘置施設と連絡して健康状態を正確に把握し、保釈への意見を柔軟に検討する必要があったと整理している。
初公判直前、検察が「立証困難」として公訴を取り消した
刑事事件は、法廷で無罪判決が出る前に終わった。東京地検は2021年7月30日、噴霧乾燥機が規制対象に当たることの立証が困難になったとして、公訴取消しを請求した。東京地裁は8月2日に公訴棄却を決定した。
ここは法的用語を正確に区別する必要がある。「起訴取消し」は無罪判決ではない。裁判所が犯罪事実を審理した末に無罪を言い渡したのではなく、検察が起訴を維持せず、公訴棄却によって刑事手続が終了した。一方、その捜査・起訴が適法だったかは、後の国家賠償訴訟で改めて審理された。
国家賠償訴訟で、捜査と起訴の違法性が司法判断の対象になった
大川原社長らと会社側は、警視庁と検察の捜査・起訴によって損害を受けたとして国と東京都を提訴した。刑事事件で公訴棄却となったことだけでは、逮捕や起訴の違法性が自動的に確定するわけではないため、その点を国家賠償請求という別の訴訟で争った。
一審に続き、2025年5月28日の東京高裁判決も警察・検察側の対応を厳しく評価した。賠償額は一審より増え、国と東京都に合計約1億6600万円の支払いを命じた。
東京高裁は「すべての勾留請求が違法」としたわけではない
高裁判決は違法性を細かく分けている。公安部による各逮捕は違法、元取締役への取調べと弁解録取書作成も違法。さらに第1事件の公訴提起、第2事件の勾留請求と公訴提起を違法とした。
一方、第1事件について検察官が行った勾留請求は、国家賠償法上違法とはいえないと判断した。事件全体を一括して「逮捕から勾留、起訴まですべて違法」と要約すると、確定判決の認定を越える。どの手続が違法とされたかを分けることが、この事件では特に重要になる。
検察には、弁護側の指摘後に温度試験を行う機会があった
東京高裁は検察側についても、起訴時点で規制該当性を裏付ける証拠を十分に吟味したかを問題にした。弁護側が装置内の低温部分を指摘した後、実機や同種機で温度分布を確認するなど、追加の検証を行う余地があったとされた。
立件に有利な証拠だけでなく、犯罪成立を弱める「消極証拠」をどう扱うか。この点は後の最高検の検証でも中心課題になった。事件を成立させる方向へ集めた情報だけでは、起訴の可否を正確に判断できないという問題である。
2025年6月、国と東京都が上訴せず国賠判決が確定
法務省は2025年6月13日の大臣会見で、判決内容を精査した結果、国として上訴しないと説明した。東京都も上訴せず、東京高裁判決は確定した。これにより、警察の逮捕や取調べ、検察の一部勾留請求・起訴についての違法認定と賠償命令が最終的な司法判断となった。
公訴取消しから約4年を経て、「起訴を維持できなかった」という刑事手続上の結果に加え、「どの捜査・起訴が国家賠償法上違法だったか」が確定判決によって具体化された。
警視庁と最高検の検証が共通して問題視した「不利な証拠」の扱い
2025年8月、警視庁と最高検はそれぞれ検証結果を公表した。警察側の検証では、事件の見立てと合わない情報が組織内で十分に共有・検討されず、指揮監督も機能しなかったことが問題とされた。警視総監が謝罪し、公安捜査の監督体制を強化する方針が示された。
最高検も、立件に不利な証拠の確認が不十分だったこと、検察内部で問題点が上位者へ十分伝わらなかったことなどを挙げた。再発防止として、消極証拠を含む客観的な証拠評価、行政法規の理解、身柄事件での健康状態の把握などを研修・運用に反映するとした。
2026年には、警視庁元幹部ら3人が都へ計528万円を支払った
国賠判決確定後も、警察側の責任の扱いは続いた。東京都監査委員の勧告を受け、警視庁は当時の公安部幹部ら3人に対し、東京都が支払った賠償金の一部を負担するよう求めた。2026年2月、3人が計528万円を都へ支払ったことが明らかになった。
これは会社側への追加賠償ではなく、東京都が公務員個人へ求償したものだ。捜査の違法性を認めた確定判決が、組織としての検証だけでなく、賠償負担の内部的な分担にも波及した。
相嶋さんの遺族は、保釈を認めなかった裁判官の判断を別訴訟で争っている
2026年4月6日、相嶋さんの妻と子らは、逮捕・勾留を認め、繰り返された保釈請求を退けた裁判官らの判断も違法だったとして、国に約1億6800万円の賠償を求める新たな訴訟を東京地裁に起こした。訴状では、判断に関与した裁判官37人の責任が問題とされている。
同年6月29日の第1回口頭弁論で国側は争う姿勢を示した。この別訴訟は2026年8月27日時点で係属中であり、裁判官の逮捕状・勾留・保釈判断が違法だったかについて確定判断はまだない。すでに確定した警察・検察の国賠判決とは分けて扱う必要がある。
この事件で確定したこと――公訴棄却と国賠の違法認定は別の手続
大川原化工機事件には二つの法的結論が重なっている。刑事事件は、検察が公訴を取り消し、裁判所が公訴棄却を決定して終了した。犯罪成立を審理した無罪判決ではない。
その後の民事訴訟では、逮捕や取調べ、起訴などの一部が国家賠償法上違法と認定され、その判決が確定した。さらに警察・検察は自ら検証し、消極証拠の扱い、指揮監督、被告人の健康把握に問題があったと整理した。2026年に始まった裁判官の判断をめぐる訴訟は、その先に残された別の争点である。
参考資料・出典
・TKCローライブラリー「国家賠償請求控訴事件」東京高裁・2025年5月28日判決(令和6年(ネ)第453号)
https://www.tkc.jp/law/lawlibrary/saishin/list/?list=41&year=2025
・法務省「法務大臣閣議後記者会見の概要」2025年6月13日
https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00625.html
・最高検察庁「大川原化工機事件に関する検証結果」2025年8月7日
https://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/supreme/img/20250807_1.pdf
・TBS NEWS DIG「最高検が検証結果公表」2025年8月7日
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2096782?display=1
・TBS NEWS DIG「警視庁が検証結果公表」2025年8月7日
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2094790?display=1
・法務省「法務大臣閣議後記者会見の概要」2025年8月8日
https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00639.html
・TBS NEWS DIG「元警視庁公安部幹部ら3人 東京都に計528万円支払い」2026年2月13日
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2466393?display=1
・共同通信「保釈退けた判断『違法』と国提訴」2026年4月6日
https://kumanichi.com/articles/1977501
・テレビ朝日「大川原冤罪 元顧問遺族の裁判始まる」2026年6月29日
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000515550.html
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