1928年12月、新聞各紙は3年前の「大岡山三人殺し」を再び大きく報じた。すでに事件を自白して起訴されていた田宮頼太郎ではなく、同年夏に起きた千住の3人殺害事件で逮捕された五味銕雄と田中藤太が、大岡山事件にも関与した疑いが強まったためだった。田宮はその報道を見ることはなかった。物的証拠が乏しいまま予審が続く中、1928年1月に病死していた。
大岡山事件と千住事件では、それぞれ3人が死亡した。後に五味と田中が両事件について起訴され、死刑判決を受ける。一方、田宮について「無罪判決」が出たわけではない。公判へ進む前の予審中に死亡し、本人への刑事手続はそこで終わった。その後に別人が同じ事件で有罪となったため、歴史的には誤認起訴の代表例として扱われている。
| 大岡山事件 | 1925年9月、東京府荏原郡碑衾村大岡山(現在の東京都目黒区) |
|---|---|
| 大岡山の被害者 | 中山愛子さん、清水徹三さん、中山歌子の養女ふささん(9) |
| 田宮頼太郎 | 1926年に大岡山事件を自白して起訴。1928年1月27日、予審中に病死 |
| 千住事件 | 1928年8月、東京府南足立郡千住町 |
| 千住の被害者 | 醤油商の山田角三郎さん(50)、妻まつさん(43)、雇人・渡邊嘉一郎さん(16) |
| 被告 | 五味銕雄、田中藤太 |
| 一審 | 1931年4月20日、東京地裁が2人に死刑 |
| 死刑執行 | 1933年3月7日 |
最初は「自殺かもしれない」と報じられた大岡山の3人死亡
事件が発覚したのは1925年9月5日。東京府荏原郡碑衾村大岡山、現在の東京都目黒区にあった中山歌子の住宅で3人が死亡しているのが見つかった。中山歌子は舞台や映画で知られた女優で、肺結核の療養のため当時は家を離れていた。
死亡していたのは、歌子の義妹にあたり「中山愛子」の芸名で一時映画にも出演していた女性、愛子の夫・清水徹三さん、そして歌子の養女ふささん(9)だった。当時の第一報では名前や関係が錯綜し、愛子を別名で、清水さんを俳優として報じた新聞もあった。後年の資料検証では、こうした初期報道の誤りも整理されている。
3人は蚊帳の中で寝ているような状態で見つかったため、当初は毒物による自殺の可能性まで報じられた。しかし捜査が進むと、3人は絞殺されたと判断された。さらに、家からなくなっていた預金通帳が使われ、事件直後に銀行から520円が引き出されていたことが分かる。銀行員は、右目に包帯か眼帯をした男が現金を引き出したと証言した。
事件直後から「複数犯ではないか」という見方もあった
現場の状況は、一人の犯人による単純な強盗殺人としては説明しにくい部分があった。当時の警視庁鑑識課長は、3人とも激しく抵抗した形跡が乏しく、犯人は2人ほどではないかという趣旨の見方を新聞に示している。
それでも決定的な物証は得られず、捜査は長期化した。盗まれた通帳を使った男の人相、被害者一家の交友関係、女優として活動していた中山歌子の周辺など、多くの人物が捜査対象になった。新聞は参考人段階の人物まで「嫌疑者」として大きく扱い、事件の見立ても揺れ続けた。
1年後、詐欺告訴で警察署へ来た田宮頼太郎が捜査線上へ
事件から約1年後の1926年秋、別件の詐欺告訴をめぐって日暮里署へ出入りしていた田宮頼太郎が捜査線上に浮上した。当時の報道によれば、警察は田宮の態度や人相などから別の重大事件への関与を疑い、大岡山事件について追及した。
田宮は1925年9月4日夜に中山歌子宅へ強盗目的で入ったという趣旨の供述を始めた。警察・検察は供述内容が現場状況と一致すると評価し、犯行を再現するような調べも行った。新聞には、銀行員が証言した人物を意識したように田宮へ眼帯を着けさせた写真まで掲載された。
しかし、供述を外側から裏付ける証拠はなかなか見つからなかった。被害品とされた指輪が押収されたと報じられたものの、後に別物だったと判明したとされる。共犯者の存在も確認できず、警察が想定した犯行像と物証の間には空白が残った。
「自白だけで証拠品一つも挙がらず」――それでも起訴された
1926年10月の新聞には、田宮を真犯人とみながらも「自白だけで証拠品一つも挙がらず」、起訴が難航しているという記事が出ている。警察は田宮を現場へ同行させて再検証するなど捜査を続け、最終的に同月、田宮は強盗殺人事件として起訴・収監された。
当時の刑事手続では、起訴後すぐ現在と同じ形の公開公判へ進むのではなく、予審判事が事件を調べる段階があった。田宮の事件では、その予審が長期化する。物証に乏しく、予審判事が公判に付す判断をなかなか出せなかったと当時報道は伝えている。
元検事が後に著書で振り返ったところでは、田宮単独で3人を一度に絞殺できたのかなど、自白内容には冷静に検討すべき不自然な点があったと指摘されている。一度「犯人」と見立てた後、その自白を否定する材料より、符合する材料を重視した捜査だったのではないかという問題が残る。
公判で否認するつもりだったとされる田宮は、予審中に病死
田宮は収容中に腎臓結核を患い、病状が悪化した。1928年1月、裁判所は家族へ引き取りを求める連絡をしたと報じられたが、田宮は1月27日に死亡した。公判で自白の任意性や信用性が本格的に争われる前だった。
当時、田宮の弁護に関わった弁護士は、田宮が面会時に「いったん自白したが、公判へ行けば覆すつもりだ」という趣旨の話をしていたと後に述べている。これは弁護人側の証言であり、田宮本人の最終的な公判供述は存在しない。
したがって、田宮について「裁判で無罪が証明された」と表現することはできない。本人の事件は、予審中の死亡によって判決に至らなかった。後に別の2人が大岡山事件で起訴・有罪となったことで、田宮の自白と起訴の妥当性が改めて問われることになった。
田宮の死から7か月後、千住で別の3人殺害事件
1928年8月、東京府南足立郡千住町で醤油商一家をめぐる事件が起きた。被害者は山田角三郎さん(50)、妻まつさん(43)、雇人の渡邊嘉一郎さん(16)。事件の初期には遺体の身元まで取り違えられ、捜査も報道も混乱した。
山田さん夫妻の遺体が家の押し入れなどから見つかる一方、荒川放水路では行李に詰められた男性の遺体が見つかった。当初、行方不明だった16歳の渡邊さんが犯人ではないかという疑いまで報じられたが、後の確認で行李の遺体は山田さん、家にあった別の遺体が渡邊さんと分かった。
50歳の男性と16歳の少年の遺体を取り違えたことは大きく批判され、新聞は事件を「探偵小説」のように扱った。しかし、その騒ぎの裏で、山田さんが事件当日に書いたはがきが捜査の方向を変えていく。
山田さんのはがきから五味銕雄へ
山田さんは貸家も持ち、金の貸し借りをしていた。事件当日に書いたはがきなどから、過去に山田さんの借家に住み、家賃や借金を抱えていた自動車運転手・五味銕雄の名前が浮上する。
五味は失職して金に困り、同じく仕事を失っていた田中藤太を誘ったとされる。1928年8月19日、「金を返す」と山田さんを田中宅へ呼び出して殺害し、その後2人で山田さん宅へ向かい、まつさんと渡邊さんも殺害したというのが、後の捜査で認定された千住事件の骨格だった。
五味と田中は8月28日までに逮捕・自白へ至った。当時の取り調べは、現在の感覚では異例だった。五味が酒好きだとして、捜査員が酒や食事を与えながら夜通し事情を聴いたと新聞が報じている。
五味は大岡山事件の被害者一家と、もともとつながっていた
五味の名前は、1928年に初めて大岡山事件へ現れたわけではなかった。五味の妻は、大岡山事件の被害者・清水徹三さんの姉にあたり、五味自身も1925年の捜査で一度事情を聴かれていたとされる。
千住事件の取り調べが一段落した後、五味は大岡山事件についても関与を供述した。さらに、中山歌子宅からなくなった指輪や時計とされる品が五味・田中側から見つかったことなど、田宮のときには乏しかった物的な裏付けが出てきた。
1928年12月には新聞が「大岡山事件の真犯人は五味・田中」と大きく報道した。ところが、検察がすぐに大岡山事件を追起訴したわけではない。すでに田宮を起訴していたため、同じ事件について別の人物を犯人として扱うことは、過去の捜査・起訴の誤りを認めることにもつながった。
一度作られた捜査の見立ては、真犯人候補が現れても簡単には変わらなかった
当時の資料によれば、大岡山事件を五味と田中の犯行として扱うことに、検察内部で慎重論があった。田宮を取り調べた側には、田宮も何らかの形で事件に関係していたはずだという見方が残っていたとされる。
一方、新聞は田宮への誤認起訴の責任を問題にし、当時の警察幹部らの責任問題まで報じた。警察側の関係者は、田宮に不法な取り調べをしたことを否定し、なお田宮を犯人と信じているという趣旨の談話も残している。
最終的には1929年9月、大岡山事件でも五味と田中が追起訴された。田宮が死亡してから1年8か月が経っていた。
両事件で死刑判決――田宮の事件は「無罪」で終わったわけではない
東京地裁は1931年4月20日、大岡山と千住の両事件について五味と田中に死刑を言い渡した。五味は一審判決を受け入れ、田中は上級審で争ったが、最終的に両名の死刑は確定した。1933年3月7日、2人の刑が執行された。
五味は公判や手記で、自らの殺人について責任を軽く見るような発言を繰り返した一方、田中については自分ほど主体的ではないという趣旨の話もしたとされる。裁判所は最終的に2人とも死刑とした。
田宮については、後から無罪判決が言い渡されたわけではない。死亡により本人への審理が終了した後、五味と田中が同じ大岡山事件について有罪となった。この違いを押さえなければ、「田宮は無罪になった」という事実ではない経過を作ってしまう。
事件が残したのは、6人殺害だけではなく「自白をどう検証するか」という問題
大岡山事件では、田宮の自白が現場状況と一致すると評価されながら、それを支える物証が乏しかった。後に別の2人から盗品とされる品が見つかり、同じ事件で有罪となった事実は、自白の具体性だけで犯人性を判断する危険を示している。
さらに、田宮に眼帯をさせて銀行員が見た犯人の姿に近づけた写真、共犯者が見つからない状態での起訴、長期の予審、一度作られた見立てを修正しにくかった検察の姿勢など、捜査・司法手続の複数の問題が重なった。
千住事件でも、遺体の取り違えや報道の暴走が起きた。一方で、被害者が残したはがきから人間関係と借金をたどり、五味へ到達した捜査が、結果として3年前の事件まで掘り起こした。二つの3人殺害事件は、戦前の重大犯罪史だけでなく、証拠に基づいて自白を検証する必要性を考える事例として残っている。
参考資料・出典
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