新宿西口バス放火事件|6人死亡、死刑求刑から「心神耗弱」で無期懲役となった理由

公開日 2026年8月14日
最終更新 2026年8月28日

事件ステータス

発生年月日
1980年
都道府県
東京都
事件分類
大量殺人事件 / 放火事件

1980年8月19日午後9時8分ごろ、新宿駅西口のバス停で発車を待っていた京王帝都電鉄の中野車庫行き路線バスが炎上した。乗客は30人を超えていた。6人が死亡し、乗客13人と運転手の計14人が負傷した。

火を放ったのは建設作業員の丸山博文、当時38歳だった。丸山は火のついた新聞紙を後部降車口から車内へ投げ、約3.8リットルのガソリンを振りまいた。東京地裁は殺意を認定した一方、犯行時は心神耗弱だったと判断する。検察が死刑を求めた事件で、法定の減軽によって言い渡された刑は無期懲役だった。

発生日1980年8月19日
発生時刻午後9時8分ごろ
場所東京都新宿区・新宿駅西口20番バス停
被害6人死亡、14人負傷
被告人丸山博文(当時38歳)
使用したガソリン約3.8リットル
主な罪殺人、殺人未遂、建造物等以外放火
一審1984年4月24日、東京地裁・無期懲役
求刑死刑
責任能力心神喪失は否定、心神耗弱を認定
控訴審1986年8月26日、東京高裁が双方の控訴棄却
その後無期懲役確定後に服役、1997年に収容中死亡

発車待ちのバスには30人を超える乗客がいた

現場は新宿駅西口、京王百貨店西側の20番バス停だった。バスは発車前で、車内灯がつき、後部の降車口も開いていた。丸山は中央分離帯の植え込みからバスへ近づき、その中に多数の乗客がいることを認識したと東京地裁は認定している。

丸山は火をつけた新聞紙を車内へ投げ入れ、その付近へガソリンを振りまいた。火は爆発的に広がった。最後部付近にいた3人は車内で死亡し、病院へ搬送された3人も後に死亡。生存した14人にも、治療に数か月を要する熱傷や骨折などが残った。

ガソリン10リットルは事件の4日前に買われていた

犯行に使われたガソリンは事件当日に衝動的に購入したものではない。丸山は8月15日午後10時すぎ、新宿のガソリンスタンドで10リットルを購入し、京王百貨店西側道路の中央分離帯にある植え込みへ隠していた。

ただし東京地裁は、8月15日の購入時点で「乗客のいる路線バスを焼く」と具体的に決めていたとは認定しなかった。弁護側が主張した勤務先への手土産という説明も、検察側が主張したバス放火の事前計画もそのまま採用せず、その時点ではどこかへ放火して世間を驚かせようと考えていたと認定した。

事件当夜の「コインロッカー」をきっかけに標的がバスへ変わった

8月19日夜、丸山は新宿駅西口のコインロッカーに預けていた手提げ袋を取り出そうとした。使用期限を過ぎた荷物は別に保管され、ロッカーの鍵も交換されていた。事情を理解できないまま荷物がなくなったと受け止めた丸山は、また自分が馬鹿にされたと感じた。

地裁判決は、この出来事に、旅館を尋ねた際のやり取りや公共の場で大声を出して注意された経験などが重なり、世間に対する憤まんが一気に高まったと認定した。丸山は植え込みに隠していたガソリンを取り出し、周辺で約8リットルのバケツを見つけ、約3.8リットルを移し替えた。そこで具体的な標的として、目の前の路線バスを選んだ。

「乗客がいるとは分からなかった」という主張を裁判所は退けた

弁護側は、丸山が激しい情動興奮の中で意識が狭まり、バスや乗客を十分に認識できなかったとして殺意を争った。火のついた新聞紙が手元で燃え広がったため、とっさに車内へ投げ捨てただけだという説明もされた。

東京地裁はこれを採用しなかった。バスは明るい場所に停車し、車内灯も点灯していた。丸山はガソリン入りのバケツと火のついた新聞紙を持って後部降車口へ近づき、多数の乗客がいることを認識しながら放火したと認定した。乗客が焼死する可能性を予見して実行した以上、殺意があったと判断した。

裁判最大の争点は「責任能力」だった

誰が放火したか以上に長く争われたのが、犯行時の丸山にどの程度の責任能力があったかという問題だった。弁護側は心神喪失として無罪を主張し、検察側は完全責任能力を前提に死刑を求めた。複数の精神鑑定が行われ、被害・追跡妄想、精神的成熟の程度、知的能力、飲酒の影響が検討された。

地裁は統合失調症による人格変化を認めなかった一方、丸山には低い知的能力を基調とする精神的未成熟さがあり、福祉関係者から追跡・迫害されているという妄想を抱いていたと認定した。犯行時には飲酒の影響も加わり、世間に対する憤まんが急激に高まったとした。

心神喪失ではなく「心神耗弱」|自分の行動を選ぶ力は残っていた

裁判所は丸山の責任能力が完全に失われていたとは認めなかった。犯行前にはガソリンをバケツへ移し替え、火をつける新聞紙を用意し、交通量のある道路を横断してバスへ近づくなど、複数の行動を連続して実行している。放火後も現場から離れようとした。

こうした行動から、善悪を判断してそれに従う能力が完全に失われた心神喪失は否定された。ただ、妄想に基づく情動興奮と飲酒が強く作用し、その能力は著しく低下していたとして心神耗弱を認定した。無罪ではないが、当時の刑法39条2項により刑を必要的に減軽しなければならない状態だった。

地裁は死刑を選択したうえで、法律上の減軽により無期懲役とした

1984年4月24日の東京地裁判決は、量刑の重さだけを見ると「死刑求刑に対して無期懲役」となる。しかし法令適用の過程はより明確だ。裁判所はいったん最も重い殺人罪について所定刑のうち死刑を選択し、その後、心神耗弱者の行為であるため法律上の減軽を行い、無期懲役とした。

地裁は、6人が死亡し14人が負傷した結果、無関係の乗客を狙った無差別性、ガソリンで車内を一気に炎上させた危険性を極めて重く評価した。心神耗弱という必要的減軽事由がなければ極刑を選ぶべき事案だとも明記している。無期懲役は犯行が軽いと評価された結果ではなかった。

検察・弁護双方が控訴し、東京高裁も無期懲役を維持した

一審後、検察側は死刑を求めて控訴し、弁護側も責任能力などを争って控訴した。1986年8月26日、東京高裁は双方の控訴を棄却し、東京地裁の無期懲役を維持した。これにより刑は確定した。

丸山は千葉刑務所で服役したが、1997年10月に収容中に死亡した。後年の記録では自死とされ、翌1998年に報じられている。判決確定から約11年後で、無期懲役の受刑中だった。

重傷を負った杉原美津子さんは、事件後も加害者と向き合った

負傷者の一人だった杉原美津子さんは、事件当時36歳。全身に重い熱傷を負いながら生還し、その後、自身の治療、生活、加害者との関係を手記として残した。丸山へ手紙を送り、事件を起こした一人の人間がどのような経過でそこまで追い詰められたのかを考え続けた。

杉原さんの記録は、加害者を免責するものではない。被害を受けた当事者が、身体的後遺症や生活の変化を抱えながら、事件後の時間をどう生きたかを残した資料である。事件当日の死傷者数だけでは見えない、被害が長期間続く現実を伝える記録となった。

犯罪被害者支援をめぐる議論の渦中で起きた事件だった

犯罪被害者等給付金支給法は、新宿西口バス放火事件より前の1980年5月1日に公布され、1981年1月1日に施行された。制度創設の直接の契機は1974年の三菱重工ビル爆破事件などであり、新宿西口バス事件をきっかけに同法が制定されたという時系列ではない。

ただし新宿の事件が起きたのは法律の公布から施行までの空白期だった。多数の死傷者を出した無差別事件が現実に起きたことで、既存制度の対象や被害者救済の在り方は国会でも具体的な問題となった。後年、犯罪被害者施策が拡充される過程でも、この事件は被害当事者の長期的な苦痛を考える材料として語り継がれている。

6人死亡という結果と、心神耗弱の法的効果を切り離さずに見る

この事件では、責任能力の判断が量刑を直接変えた。裁判所は丸山に殺意を認め、犯行の重大性から死刑を選択するほどの責任があると評価した。その一方で、犯行時には善悪に従って行動する能力が著しく低下していたとして、法律が定める減軽を適用した。

「6人を殺害したのに無期懲役」という結果だけでは、判決の構造は見えない。殺意、犯行の重大性、精神状態の三つを別々に検討したうえで、心神喪失ではなく心神耗弱としたことが最終刑を決定した。新宿西口バス放火事件は、無差別殺傷の被害と責任能力の法的判断が正面から交差した裁判だった。

参考資料・出典

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