永山則夫連続射殺事件|19歳で4人を殺害、死刑と無期を往復した「永山基準」

公開日 2026年2月4日
最終更新 2026年8月28日
カテゴリー 1960年代 少年犯罪 死刑

事件ステータス

発生年月日
1968年
都道府県
京都府 / 北海道 / 愛知県 / 東京都
事件分類
少年犯罪
司法状況
確定
最終刑・処分
死刑

1968年10月11日から11月5日までの26日間に、東京、京都、北海道、愛知で四人の男性が拳銃で殺害された。永山則夫は当時19歳。四件は離れた都市で起きたが、同じ米軍施設から盗まれた拳銃が使われ、翌1969年の逮捕で一連の犯行が明らかになった。

事件の刑事裁判は、四人を殺害した事実だけでなく、犯行時少年だった被告人に死刑を選べるかをめぐって長期化した。一審死刑、控訴審無期懲役、最高裁による破棄差戻し、差戻し審死刑と判断が往復する。その過程で最高裁が示した量刑上の考慮要素は、後に「永山基準」と呼ばれるようになった。

連続射殺1968年10月11日〜11月5日
被害者中村公紀さん、勝見留治郎さん、斉藤哲彦さん、伊藤正昭さん
被告人永山則夫(犯行時19歳)
逮捕1969年4月7日
一審1979年7月10日、東京地裁・死刑
第一次控訴審1981年8月21日、東京高裁・無期懲役
第一次上告審1983年7月8日、最高裁・無期判決を破棄し差戻し
差戻し控訴審1987年3月18日、東京高裁・死刑維持
第二次上告審1990年4月17日、最高裁・上告棄却
死刑執行1997年8月1日、東京拘置所

横須賀の米軍施設から盗んだ拳銃が、四つの都市へ持ち込まれた

永山は1968年、神奈川県横須賀市の米軍施設から拳銃と実包を盗み出した。銃を持ったまま各地を移動し、10月から11月にかけて東京、京都、北海道、愛知で相次いで発砲する。四人の被害者と永山に、犯行以前から個人的な関係はなかった。

四件はすべて同じ動機だけで説明できる事件でもない。最初の事件では見つかったことへの対応として発砲し、その後の事件では金品を奪う目的も加わった。短期間に殺人を重ねた事実と、各事件で犯意が形成された経過の双方が、後の量刑判断で検討された。

10月11日、東京プリンスホテルで中村公紀さんが殺害された

最初の殺人は1968年10月11日未明、東京都港区の東京プリンスホテル敷地内で起きた。警備員の中村公紀さん(27)が、敷地内にいた永山を見つけた。永山は所持していた拳銃を発砲し、中村さんを死亡させた。

この時点で永山は19歳だった。最初の発砲からわずか3日後、今度は京都に移動して二件目の殺人を起こす。事件は一都市で完結せず、夜行列車などで移動しながら続いた。

10月14日、京都・八坂神社で勝見留治郎さんが殺害された

10月14日未明、京都市の八坂神社境内で警備員の勝見留治郎さん(69)が射殺された。第一審から控訴審に至る裁判では、東京の事件から間を置かず、同じ拳銃を持ったまま別の都市へ移動して再び人を殺害した経過が重く扱われた。

二人の警備員を殺害した後も拳銃を手放さず、永山は北海道へ向かった。ここからの二件は、タクシー運転手を狙い、運賃だけでなく現金などを奪う強盗殺人へ性格を変えていく。

函館近郊では斉藤哲彦さんを殺害し、現金を奪った

10月26日、北海道函館市でタクシーに乗った永山は、七飯町方面へ向かった。運転手の斉藤哲彦さん(31)を拳銃で撃って殺害し、現金約7200円などを奪ったと認定された。

殺害後、永山は再び本州へ戻る。四件目までの間隔は10日ほどしかなかった。拳銃を保有し続け、移動先で新たな被害者を選んだことが、連続性と再犯危険の強さを示す事情として後の裁判で指摘される。

11月5日、名古屋で伊藤正昭さんが殺害された

11月5日未明、名古屋市でタクシー運転手の伊藤正昭さん(22)が射殺された。永山は現金約7000円や腕時計などを奪った。最初の中村さん殺害から26日間で、四人の生命が奪われたことになる。

四件の後、連続射殺はいったん止まった。しかし拳銃は永山の手元に残り、翌1969年4月、東京で別の事件を起こしたことが逮捕につながる。

1969年4月、学校施設で警備員へ発砲し、逮捕された

1969年4月7日未明、永山は東京都内の学校施設に侵入し、警備員の中谷利美さんに見つかった。拳銃を発砲したが弾は命中せず、逃走後まもなく警察官に逮捕された。

この逮捕から拳銃の入手経路や過去の発砲事件が調べられ、四都市の射殺事件との結び付きが明らかになった。永山は殺人、強盗殺人、同未遂、窃盗、銃刀法違反など複数の罪で起訴される。

四件の射殺以外にも窃盗や強盗殺人未遂が起訴された

永山が裁かれたのは四件の既遂殺人だけではない。米軍施設から拳銃や弾丸を盗んだ窃盗、1969年4月の発砲を含む強盗殺人未遂、銃刀法違反、火薬類取締法違反などが併合して審理された。

刑事裁判の量刑で中心となったのは四人の死亡だが、拳銃を盗んで所持し続け、各地へ持ち運び、逮捕時まで別の発砲事件へ使った一連の経過は、偶発的な一回の殺人とは異なる犯行の継続性を示していた。

一審は1979年、四人を殺害した結果を重く見て死刑を選んだ

東京地裁の審理は長期に及び、1979年7月10日に死刑判決が言い渡された。四人の生命を奪った結果、拳銃を持って各地で犯行を重ねた態様、金品目的の強盗殺人を含むことなどが量刑上重く評価された。

一方、永山側は犯行時19歳だったこと、幼少期からの極端に不遇な生育環境、逮捕後の反省や獄中での変化などを主張し、死刑を避けるよう求めた。この「犯罪結果の重大さ」と「少年期・生育歴をどこまで量刑へ反映させるか」が、上級審の中心になる。

1981年、東京高裁は死刑を破棄して無期懲役に変更した

1981年8月21日、東京高裁は一審の死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。犯行時19歳で精神的な成熟が十分でなかったこと、貧困と家庭環境、逮捕後に文筆活動を始めたこと、著作の印税から一部被害者遺族へ金銭を送ったことなどを考慮した。

高裁は四人が殺害された結果を軽視したわけではない。それでも、死刑は生命を奪う究極の刑罰である以上、若年や更生可能性を含めて慎重に判断すべきだとして無期懲役を選んだ。検察側はこの量刑を不服として最高裁へ上告した。

無期懲役を選んだ高裁は、被害弁償と獄中での変化も量刑資料にした

第一次控訴審では、永山が拘置中に著作活動を始め、その印税から斉藤さんと勝見さんの遺族へ金銭を送っていたことも認定された。中村さんや伊藤さんの遺族には受領されていなかったが、将来も印税を弁償に充てる意思を示していた。

東京高裁は、こうした行動を犯行後の情状として考慮した。被害を金銭で取り戻せるという意味ではなく、19歳だった被告人が拘禁後に変化し、将来の更生可能性を示す事情の一つとして扱った。最高裁は、その有利な事情を踏まえても四人殺害の罪責は死刑を避けられないほど重いと判断した。

最高裁は1983年、無期懲役判決を破棄して高裁へ差し戻した

1983年7月8日、最高裁第二小法廷は検察側の上告を認め、無期懲役とした東京高裁判決を破棄し、審理を高裁へ差し戻した。被告人に不利益な方向へ、量刑不当を理由として控訴審判決を破棄する異例の判断だった。

最高裁は、死刑を選ぶ際には犯行の罪質、動機、態様、とりわけ殺害方法の執拗性・残虐性、結果の重大性、特に被害者数、遺族の被害感情、社会的影響、被告人の年齢、前科、犯行後の情状などを総合すべきだと示した。そのうえで、罪責が極めて重大で、罪刑の均衡と一般予防の見地から極刑がやむを得ない場合には死刑を選択できるとした。

「永山基準」は九つの項目を機械的に数える採点表ではない

後に「永山基準」と呼ばれるようになったのは、この1983年最高裁判決の判断枠組みである。ただし、九つほどの要素のうち何個当てはまれば死刑、という基準ではない。各事情を事件ごとに総合し、死刑が真にやむを得ないかを判断するための考慮要素を示したものだ。

その後の死刑事件でも最高裁や下級審はこの判決を繰り返し引用している。特に被害者数は重要な事情だが、それだけで結論が自動的に決まるわけではない。動機、計画性、犯行態様、年齢、前科、犯行後の事情などとの組み合わせで最終的な量刑が判断される。

差戻し審は1987年に死刑を維持し、1990年に最高裁が上告を棄却した

差戻し後の東京高裁は1987年3月18日、永山側の控訴を棄却し、一審の死刑判決を維持した。犯行時の若さや生育歴を考慮しても、四人を相次いで殺害した罪責の重大さから死刑は重すぎないと判断した。

永山は再び上告したが、1990年4月17日、最高裁第三小法廷は上告を棄却した。弁護側は判決訂正も申し立てたが退けられ、死刑が確定した。一審判決から確定まで約11年、逮捕からは21年が経過していた。

獄中では著作を発表し、印税の一部が遺族へ送られた

永山は拘置中に読み書きを学び、1971年に手記『無知の涙』を刊行するなど文筆活動を続けた。第一次控訴審判決によると、著作の印税から斉藤さん、勝見さんの遺族へ金銭が送られた一方、受け取りを拒んだ遺族もいた。

こうした犯行後の事情は無期懲役を選んだ第一次控訴審で有利な情状として評価されたが、最高裁は四人を殺害した犯罪そのものの重さを上回るものではないと判断した。永山事件が後世に残したのは文学活動だけではなく、「犯行後にどこまで変化しても、犯行時の罪責を量刑でどう評価するか」という問題でもある。

死刑確定は1990年4月17日の上告棄却だけで完了したわけではない

1990年4月17日の最高裁判決後、弁護側は判決訂正を申し立てた。最高裁は同年5月にこれを棄却し、死刑判決は法的に確定した。判決言渡しの日と、訂正申立てを含む手続が終わる日は一致しない。

死刑確定後も永山は東京拘置所に収容され、執行まで約7年3か月を過ごした。再審で死刑判決が取り消された事実はなく、1997年7月に執行命令が出され、8月1日に刑が執行された。

1997年8月1日、東京拘置所で死刑が執行された

死刑確定から約7年後の1997年8月1日、永山の死刑が東京拘置所で執行された。48歳だった。法務省は後年、犯行時少年だった死刑確定者の執行を説明する際、1997年の永山の執行を前例として挙げている。

四人の殺害から半世紀以上を経ても、「永山基準」は死刑選択の判例上の出発点として引用され続けている。永山事件では、一人の被告人に死刑を科すかという判断が一審と控訴審で分かれ、その差を最高裁がどのような量刑要素で埋めるかを示した。事件そのものと同時に、日本の死刑判断の枠組みに大きな影響を残した裁判でもある。

参考資料・出典

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