1971年5月13日夕方、群馬県内を走り回っていた私設の捜索隊が、前橋市内で一台の白い乗用車を見つけた。運転していたのは大久保清(36)。前日まで警察が追っていた人物であり、翌14日、群馬県警は殺人容疑で大久保を逮捕した。
捜査が進むと、3月31日から5月10日までの41日間に、16歳から21歳の女性8人が殺害されていたことが判明する。大久保は同年3月に刑務所から出たばかりで、白い車から若い女性へ声をかけ、画家や教師などを名乗って接近していた。前橋地裁は1973年2月22日に死刑を言い渡し、大久保は控訴しなかった。1976年1月22日、東京拘置所で死刑が執行された。
| 犯行期間 | 1971年3月31日~5月10日 |
|---|---|
| 発生地域 | 群馬県内 |
| 被害 | 16~21歳の女性8人が死亡 |
| 被告人 | 大久保清(事件当時36歳) |
| 身柄確保 | 1971年5月13日、前橋市内 |
| 逮捕 | 1971年5月14日、殺人容疑 |
| 初公判 | 1971年10月25日、前橋地裁 |
| 判決 | 1973年2月22日、死刑 |
| 確定 | 期限まで控訴せず死刑確定 |
| 執行 | 1976年1月22日、東京拘置所 |
3月に出所した直後、白い車で女性へ声をかけ始めた
大久保には事件以前から性犯罪などによる服役歴があった。1971年3月に府中刑務所を出た後、白い乗用車で群馬県内を走り、若い女性へ次々に声をかけるようになる。画家、詩人、教師などを名乗り、絵や写真のモデルになるよう誘うこともあった。
後に整理された記録では、身柄を確保されるまでの約73日間に声をかけた女性は127人とされ、30人以上が車に乗った。全員が事件の被害者になったわけではないが、その行動の中で8人の殺害が続いた。最初の殺害は3月31日、最後は5月10日だった。
41日間に8人が死亡、失踪は当初それぞれ別の事件だった
8人はいずれも16歳から21歳の若い女性で、失踪した日も場所も同じではなかった。家を出たまま戻らない女性について、家族はそれぞれ警察へ届け出て捜索を続けた。初めから「一人の男による連続殺人」と分かっていたわけではない。
大久保は車で接触した女性を人目の少ない場所へ連れ出し、殺害後は遺体を山林や造成地などへ遺棄した。事件の全体像が見え始めるのは、最後の時期に失踪した21歳女性を家族が独自に捜し、白い車とその所有者へたどり着いてからだった。
被害女性の自転車に近づいた男から車のナンバーが残った
1971年5月9日に21歳の会社員女性が行方不明になると、家族や知人は夜を徹して捜した。翌朝、兄が信用金庫の自転車置き場で女性の自転車を発見する。そこへ白い乗用車が現れ、男が自転車へ近づいたため、兄が声をかけた。男は車で立ち去ったが、車種とナンバーの一部が記憶された。
照会によって車の所有者として浮上したのが大久保だった。既に性犯罪などの前科があり、同年3月に出所したばかりだったことから、警察は行方を追う。家族や知人も捜索を続け、白い車を探した。この車の特定が、別々に扱われていた女性の失踪を一人の人物へ結び付ける転換点になった。
5月13日に身柄を確保、翌14日に殺人容疑で逮捕
5月13日夕方、前橋市内で大久保の車を見つけたのは、行方不明女性の家族らを中心とする捜索側だった。大久保は取り押さえられ、警察へ引き渡された。翌14日、群馬県警は大久保を殺人容疑で逮捕した。
身柄確保の日付と正式な逮捕日は資料上分けて扱う必要がある。5月13日は大久保が捜索側に発見され警察の管理下に入った日で、5月14日が殺人容疑による逮捕日となる。逮捕後の取り調べは、失踪していた女性たちの所在を突き止める捜査へ移った。
供述に基づく捜索で8人の遺体が発見された
逮捕後、大久保は女性たちへの犯行について供述を始めた。その内容を基に群馬県内の山林や造成地などが捜索され、失踪していた8人の遺体が相次いで発見された。遺体の発見によって、行方不明事件は殺人・死体遺棄事件として立件されていく。
8人の殺害は、同じ場所で一度に起きた事件ではない。3月末から5月上旬まで、複数の市町村で女性へ接近し、それぞれ別の日に殺害した連続事件だった。捜査では、その間に大久保が接触した多数の女性からも事情を聴き、殺害事件以外の性犯罪についても事実関係が調べられた。
殺人だけでなく強姦致傷なども起訴対象となった
大久保は8人の殺害と死体遺棄に加え、別の女性に対する強姦、強姦致傷などでも起訴された。1971年10月25日に前橋地裁で初公判が開かれ、大久保は起訴事実を認めた。公判は、犯行の有無を全面否認する事件ではなく、短期間に繰り返された行為とその刑事責任、量刑を審理する形で進んだ。
被害者が8人に及んだこと、出所後間もなく犯行を重ねたこと、若い女性へ継続的に接近していたことなどが法廷で扱われた。弁護側の活動や本人の法廷での態度も含めて審理されたが、最終的な焦点は、これほど多数の生命を奪った犯罪にどの刑を科すかだった。
1973年2月22日、前橋地裁が死刑を言い渡した
1973年2月22日、前橋地裁は大久保に死刑を言い渡した。判決後、大久保は東京高裁へ控訴しなかった。
そのため、この事件の死刑は控訴審や最高裁の判決で確定したものではない。一審判決に対する控訴期限が過ぎたことで前橋地裁の死刑判決がそのまま確定した。裁判手続をたどる際には、死刑判決の日と死刑確定の経緯を分けて見る必要がある。
死刑確定から約3年後、東京拘置所で執行
死刑確定後、大久保は東京拘置所へ移された。1976年1月22日、死刑が執行された。41歳だった。1971年の身柄確保から約4年8か月、前橋地裁の死刑判決から約2年11か月後の執行となった。
大久保清連続殺人事件は、41日間に8人が殺害された規模だけでなく、一人の行方不明女性を捜していた家族が白い車を特定し、そこから連続事件の全体像へ捜査が進んだ経過にも特徴がある。司法手続上は一審のみで終わり、控訴されないまま死刑が確定し、1976年に執行された。
127人への接触記録が示した、殺害8件の外側にあった行動
事件を扱った資料では、大久保が出所から逮捕までの約73日間に127人の女性へ声をかけたとされる。車に乗った女性は30人を超え、そのすべてが殺害被害者になったわけではない。刑事裁判で殺人として認定されたのは8人だが、その前後には多数の女性への接触と性犯罪があった。
この数字は、8件の殺害が日常生活の中で偶然起きた別々の衝突ではなく、若い女性を探して接近する行動を反復する中で生じたことを示す。裁判では殺人、死体遺棄だけでなく、別の女性への強姦や強姦致傷も起訴対象となり、出所後の短期間に同種行動を繰り返した経過が審理された。
一人の家族の捜索が、連続事件を止める手掛かりになった
最後の時期に行方不明になった21歳女性の家族は、警察への届け出と並行して自らも行方を捜した。兄が女性の自転車を見つけ、その場所へ現れた男と白い車を目撃したことで、車の所有者までたどる具体的な手掛かりが残った。
5月13日の身柄確保も、家族や知人による捜索が続く中で実現した。逮捕後に供述から遺体が見つかり、8件の失踪が殺人事件として結び付いたため、家族側の行動は単に一人の行方を追う捜索にとどまらず、連続する被害を止める契機になった。
死刑判決は高裁・最高裁を経ずに確定した
重大な死刑事件では控訴審、上告審まで続く例が多いが、大久保の裁判は異なる。前橋地裁の死刑判決に対し本人が期限まで控訴しなかったため、東京高裁や最高裁が事実認定と量刑を審理する機会はなかった。
このため「最高裁で死刑が確定した」「控訴を取り下げて確定した」とする説明は手続と一致しない。1973年2月22日に前橋地裁で死刑判決、その後控訴せず確定、1976年1月22日に東京拘置所で執行という流れが司法手続の骨格となる。
3月2日の出所から約4週間後に最初の殺害が起きた
大久保は1971年3月2日に府中刑務所を出た。最初の殺害は3月31日で、出所から1か月も経っていなかった。その後4月から5月10日まで犯行が続き、5月13日の身柄確保まで約73日間にわたり若い女性へ接触を繰り返した。
過去の服役歴は、それだけで後の犯罪を予測する材料ではない。しかし本件では、性犯罪で処罰された後に同種の接近行動を再開し、その中で8人の殺害へ至ったという時系列が確認されている。裁判でも、出所後短期間で犯行を反復した事情は量刑を考える重要な背景となった。
参考資料・出典
- 共同通信社年表(渋沢社史データベース)1971年5月14日・1973年2月22日
- 国立国会図書館「昭和四十六年、群馬の春―大久保清の犯罪」書誌情報
- コトバンク「大久保清」
- 文春オンライン「大久保清連続殺人事件」第7回
- 文春オンライン「大久保清連続殺人事件」
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