1971年3月31日から5月10日にかけて、群馬県内で16歳から21歳までの女性8人が相次いで連れ去られ、殺害された。犯人の大久保清(当時36歳)は白い乗用車を使い、画家や美術関係者を装って路上の女性へ声をかけ、写真撮影やモデルの仕事を口実に車へ乗せていた。被害者の多くは、それぞれ別の日に一人で行動しているところを狙われた。
失踪事件として別々に始まった捜査は、行方不明者と接触した白い車の情報から一つにつながった。大久保は1971年5月に逮捕され、供述に基づいて群馬県内の山林や河川敷から8人の遺体が発見された。前橋地裁は1973年2月に死刑を言い渡し、控訴を取り下げたことで確定した。死刑は1976年1月22日、東京拘置所で執行された。
| 事件名 | 大久保清連続殺人事件 |
|---|---|
| 発生日・期間 | 1971年 |
| 発生場所 | 群馬県前橋市・高崎市周辺 |
| 事件概要 | 1971年、群馬県内で大久保清が若い女性を白い乗用車へ誘い、41日間に8人を殺害した。 |
| 判決・現在の状況 | 死刑(1973年確定、1976年1月22日執行)。死刑執行済み |
| 最終確認日 | 2026年8月1日 |
白い乗用車と画家を名乗る接近方法
大久保は群馬県内を車で走りながら、単独で歩く若い女性を探していた。声をかける際には、自分を画家、デザイナー、美術教師などと紹介し、モデルにならないか、写真を撮らせてほしいと持ちかけた。当時は現在のように携帯電話や街頭防犯カメラがなく、車へ乗った後の移動経路を外部から追う手段は限られていた。知らない男性の車に乗ったという事実が家族へ直ちに伝わる状況でもなかった。
使われた白い乗用車は、被害者が最後に目撃された場所を結ぶ重要な手掛かりとなった。大久保は車内や人目の少ない場所で女性の自由を奪い、性的暴行を加えた後に殺害した。遺体は山林、造成地、河川敷など異なる場所へ運ばれたため、最初の段階では同一人物による連続事件と断定しにくかった。
大久保が用いた肩書や誘い文句は、被害者が警戒を解くように選ばれていた。絵や写真に関心があるように装い、仕事や進路につながる可能性を示す一方、車へ乗せた後は郊外へ移動した。被害者ごとの出会いは偶然でも、単独で行動する若い女性を探し、車内という閉じた空間へ移す方法は反復されていた。白い車は犯行の道具であると同時に、目撃証言を一つに結ぶ外形的な特徴となった。
41日間に続いた8人の失踪
最初の被害は1971年3月31日に発生した。その後、4月から5月にかけて失踪が続き、被害者は高校生、会社員、家事手伝いなど立場の異なる女性だった。大久保との面識はなく、日常の移動中に偶然接触したことが事件の始まりになった。犯行の間隔は短く、前の被害者が発見されないまま次の女性が狙われた。
家族は帰宅しない娘や姉妹を捜し、警察へ届け出た。失踪前後の目撃情報を集めると、白い車に乗った、画家を名乗る男と話していたといった共通点が浮かんだ。ただし、大久保が名乗った職業や説明は一定せず、被害者ごとに言葉を変えていた。捜査は失踪地点、交友関係、交通手段を一件ずつ確認しながら進められた。
8人の失踪地点と生活圏は同一ではなく、家族が最初から連続事件を想定できる状況ではなかった。帰宅時間、勤務先、友人との約束を一件ずつ確認する中で、直前に見知らぬ男と話していたという証言が積み重なった。遺体が見つからない段階では本人の意思による家出の可能性も検討されたが、短期間に似た年齢層の女性が消えたことが、個別事件を横断する捜査へつながった。
女性からの通報と大久保の身柄確保
5月上旬、大久保から声をかけられた女性が不審に思い、車の特徴や男の様子を警察へ伝えた。行方不明者の捜査で集められていた情報と照合すると、大久保が使用する車が捜査線上に浮かんだ。警察は5月14日に大久保の身柄を確保し、女性に対する暴行事件などについて事情を聴いた。
大久保は当初、失踪した女性との関係を否定したり、説明を変えたりした。しかし、目撃証言、車の使用状況、女性の所持品などを突き合わせると供述との矛盾が増えた。捜査側は、単独の性犯罪ではなく、複数の失踪に関与している可能性を前提として聴取を続けた。
身柄確保のきっかけとなったのは、殺害を免れた女性側から提供された具体的な情報だった。男の話し方、車の色や形、接触した場所が既存の失踪記録と重なり、警察は大久保の行動範囲を確認した。連続事件では、犯人が残した物証だけでなく、危険を感じてその場を離れた人の記憶が捜査を前進させる場合がある。本件でも、被害がさらに拡大する前に車両と人物を結び付ける転換点になった。
供述から発見された8人の遺体
取り調べが進むと、大久保は女性を殺害し、遺体を遺棄した場所について供述した。警察は指示された山林や河川敷を捜索し、次々に遺体を発見した。遺棄場所は広い範囲に散らばっていたが、いずれも大久保が車で移動でき、人目を避けやすい場所だった。
発見された遺体の状態や鑑定結果は、被害者が暴行を受けた後に殺害されたことを示した。被害者の衣類や所持品、遺棄場所への案内、失踪当日の大久保の行動が結び付き、8件を同一人物の犯行として立証する証拠が整えられた。遺体発見は家族にとって被害の確定を意味すると同時に、刑事裁判の基礎となった。
大久保の案内で行われた捜索は、供述の信用性を確かめる作業でもあった。一般には知られていない遺棄場所を示し、そこから失踪者の遺体や所持品が発見されれば、本人しか知り得ない事実として強い意味を持つ。警察は発見状況を記録し、死因や死亡時期、衣類の状態を鑑定した。供述だけに依存せず、各被害者が大久保の車へ乗った経過と遺棄場所を客観資料で補強した。
前科と出所後に再開した性犯罪
大久保には事件前から性犯罪の前科があった。若い女性へ接近し、暴行を加える行動で処罰され、服役した経験もあった。1971年の連続殺人は、刑務所を出た後に始まっており、過去の処罰が再犯を止めなかったことが裁判でも重く扱われた。
人物背景を犯行原因へ単純に結び付けることはできないが、大久保が女性を対等な相手としてではなく、自分の欲求の対象として扱い、拒否や発覚を避けるために殺害へ進んだ経過は、8件に共通していた。短期間に同じ接近方法を繰り返した点は、偶発的な一件ではなく、継続した意思に基づく犯行であることを示していた。
前科は人物への道徳的評価ではなく、同種行為の反復と刑罰後の行動を量刑上検討する資料となった。大久保は以前の事件で処罰され、性犯罪が他者の身体と自由を侵害する行為だと理解する機会を持っていた。それでも出所後、面識のない女性へ接近する方法を整え、拒否や発覚を避けるため殺害を重ねた。裁判では、短期間に8人へ同じ構造の被害を与えた継続性が重く評価された。
8人の殺害を審理した前橋地裁
大久保は殺人、強姦致死、死体遺棄などの罪で起訴された。公判では8人全員について、接触から殺害、遺棄までの経過が審理された。弁護側は責任能力などを争ったが、裁判所は犯行前後の行動、証拠を隠そうとした行為、場所を選んで遺体を運んだ経過から、行動を判断し制御する能力があったと認めた。
1973年2月22日、前橋地裁は死刑を言い渡した。判決は、被害者が8人に及ぶこと、性的暴行と殺害を反復したこと、出所後の短期間に犯行を重ねたことを量刑上重視した。大久保はいったん控訴したものの、後に取り下げたため、第一審の死刑判決が確定した。
公判で8件を審理するには、被害者ごとの失踪時刻、最後の目撃、遺体発見、鑑定、被告人の供述を個別に確認する必要があった。検察は一連の犯行をまとめて示しつつ、各事件の殺意と実行行為を立証した。弁護側の責任能力に関する主張に対し、判決は接近方法を使い分け、発見されにくい場所を選び、事件後に説明を変えた行動を挙げ、違法性を理解したうえで行動していたと判断した。
1976年の死刑執行
死刑確定後、大久保は東京拘置所に収容された。1976年1月22日に刑が執行され、連続殺人についての刑事手続は終結した。逮捕から執行まで約4年8か月、死刑判決から約3年後だった。
事件後に出版された書籍や雑誌には、大久保の言動を刺激的に扱った記述も多い。現在、確実に確認できる中心事実は、41日間に8人が連れ去られて死亡し、目撃された車と生存した女性の情報から大久保が特定され、供述と客観証拠によって犯行が立証されたことである。
刑の執行によって大久保本人への手続は終わったが、被害者8人の生活や家族の記録が事件名の陰に隠れやすい問題は残る。後年の出版物には犯人の異常性や言葉を中心に据えたものもある一方、捜査が始まったのは帰宅しない家族を捜す届け出からだった。事件の全体像は、大久保の人物像だけでなく、別々に暮らしていた8人が同じ方法で狙われ、家族の捜索と目撃情報が犯行を止めた経過から捉える必要がある。
事件の被害者は、年齢が近いという共通点はあっても、それぞれ異なる家庭、学校、職場、将来の予定を持っていた。連続殺人を一つの数字として扱うと、誰がいつ帰宅せず、家族がどのように捜し始めたかが見えにくくなる。捜査記録は8件を同一犯の行動としてまとめたが、裁判では一人ずつの死亡結果が独立した殺人として認定された。大久保の供述や人物像を中心にした後年の作品だけでなく、失踪届、目撃、遺体確認という被害者側の経過を記事の軸へ残す必要がある。
大久保が控訴を取り下げたため、死刑判決の事実認定や量刑は高裁・最高裁で実質的に再検討されなかった。本人の意思による取下げが有効であれば第一審判決は確定する。死刑執行後に再審が開始された事実はなく、2026年時点の法的状態は刑執行済みである。未確認の余罪や、本人が語ったとされる猟奇的な発言には出典の不確かなものも多く、8人の起訴事実を越える内容を確定事実として加えることはできない。
事件発生から逮捕までが短かったことは、すべての被害を防げたことを意味しない。最初の失踪時点では犯人像がなく、8人目の被害まで同一車両と接近方法が十分共有されなかった。現在なら防犯カメラ、ナンバー読取、携帯電話位置情報などが捜査に使われる可能性があるが、1971年の捜査は目撃と聞き込み、車両照会に依存した。時代の違いを踏まえても、失踪者情報を事件間で照合したことが逮捕への基礎となった。
起訴された8件以外に大久保が関わったとする話も流通しているが、裁判で認定された被害と区別しなければならない。本人の供述は誇張や変化を含む可能性があり、未発見者を結び付けるには物証が必要となる。2026年時点で公式に追加認定された殺人は確認されていないため、記事の被害人数は8人とする。
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