小平事件|食料と仕事を求める女性を狙い、10件起訴で7件有罪となった連続殺人

公開日 2026年3月4日
最終更新 2026年7月31日

小平事件は、1945年5月から1946年8月にかけて、小平義雄が食料や仕事を求める若い女性へ接近し、人目のない場所へ誘い出して性暴力と殺害を繰り返した事件である。

小平は殺人10件で起訴されたが、東京地裁が有罪と認定したのは7件で、3件は証拠不十分として無罪となった。起訴件数と確定した被害者数を混同してはならない。

1947年に死刑、1948年11月に最高裁で確定し、1949年10月5日に宮城刑務所で執行された。刑事手続は終了しており、後年語られた余罪を裁判上の確定被害へ加えることはできない。

POINT
この記事でわかること
  • 1945年から1946年に起きた連続強姦殺人の経緯
  • 小平義雄が食糧や仕事を口実に女性へ近づいた手口
  • 起訴された10件のうち7件だけが有罪となった理由
  • 最後の被害女性から小平の身元が判明した流れ
  • 東京地裁の死刑判決から最高裁での確定まで
  • 1949年の死刑執行と現在の事件状況

小平事件の概要|戦中・戦後に女性7人を殺害

項目内容
一般的な事件名小平事件
別称小平義雄事件、小平義雄連続強姦殺人事件
犯行期間1945年5月25日〜1946年8月6日
主な発生地域東京都、栃木県など
犯人小平義雄
逮捕時年齢41歳
主な被害者食料や仕事を求めていた若い女性
起訴された殺人事件10件
有罪となった事件7件
無罪となった事件3件
逮捕1946年8月20日
一審判決1947年6月18日、東京地裁が死刑
控訴審1948年、控訴棄却
最高裁1948年11月16日、上告棄却
死刑執行1949年10月5日、宮城刑務所
執行時年齢44歳
現在刑事手続き終了、死刑執行済み

事件名の「小平」は、東京都小平市を指しているわけではありません。

犯人・小平義雄の名字から付けられた呼称です。事件の主な舞台は東京や栃木であり、小平市で発生した連続殺人事件という意味ではありません。

戦争末期から敗戦直後|食料を求める女性があふれた時代

小平の連続犯行が始まった1945年、日本では戦争によって食料や生活物資が著しく不足していました。

都市部の住民が衣服や時計などを持ち、農村へ食料の買い出しに向かうことも珍しくありません。終戦後も配給だけでは生活を支えきれず、闇市や物々交換に頼る人が大勢いました。

小平は、そうした状況を利用します。

駅などで食料を求めている女性へ近づき、「米や芋を譲ってくれる農家を知っている」と話す。あるいは仕事を探している少女に「就職先を紹介する」と持ちかける。

生活のために食料や仕事を必要としていた女性にとって、その言葉は簡単に無視できるものではありませんでした。 戦後の困窮は事件の原因ではなく、小平が被害者を誘い出すために悪用した社会状況だったのです。

小平義雄は何者だったのか|殺人事件以前にも重大な暴力事件

小平義雄は1905年、栃木県に生まれました。

青年期には海軍に所属し、中国大陸へ派遣された経験もありました。その後に結婚しますが、妻との関係が悪化すると、復縁を拒んだ妻の実家を襲撃。複数人へ重傷を負わせた事件で懲役15年の判決を受けています。

しかし、恩赦などによって刑期が短縮され、1940年に仮出所しました。

出所後は工場などで働き、再婚して子どもも生まれています。外から見れば家庭を持つ労働者でしたが、1945年、勤務先の施設で最初の殺人事件を起こしました。

過去の暴力事件と連続殺人を単純につなげることはできません。ただ、小平は偶然一度だけ重大犯罪へ至った人物ではなく、以前にも人命を奪う結果を伴う暴力事件で服役していた人物でした。

1945年5月の最初の殺人|勤務先の女子寮で21歳女性を襲う

有罪となった最初の事件は、1945年5月25日に起きました。 小平は、勤務していた東京都内の海軍衣糧廠にある女子寮へ入り、21歳の女性隊員を襲って殺害したと認定されています。

事件は早い段階で発覚しましたが、捜査では別の男性にも疑いが向けられました。小平はその間に勤務先を辞め、現場から姿を消しています。

もしこの段階で小平の関与が明らかになっていれば、その後の犠牲は防げた可能性があります。 しかし事件は解決しないまま残され、小平は駅や街中で次の標的を探すようになりました。

「農家を紹介する」と駅で接近|山林へ誘い込む手口

2件目以降、小平は戦時・戦後の買い出し事情を利用しました。 新栃木駅、渋谷駅、池袋駅、東京駅、浅草雷門駅などで、食料を求める女性へ声をかけます。

「農家を知っている」「食料を譲ってもらえる」と信用させ、人通りの少ない山林や農村部へ案内する。そこで性暴力を加え、首を絞めるなどして殺害し、所持金や腕時計、衣類などを奪いました。

当時は女性が一人で遠方へ買い出しに向かうこともありました。交通や通信の混乱も続き、家族が帰宅の遅れに気づいても、すぐに足取りを確認するのは困難です。

小平は被害者の困窮だけでなく、社会全体の混乱と捜査の難しさまで利用したといえます。

1945年中に6件|同じ手口で女性を次々に殺害

裁判で有罪となった7件のうち、6件は1945年中に起きました。

  • 1945年5月:勤務先の女子寮で21歳女性を殺害
  • 1945年6月:新栃木駅で出会った女性を農家紹介の口実で誘い出して殺害
  • 1945年7月12日:渋谷駅で声をかけた22歳女性を殺害
  • 1945年7月15日:池袋駅で出会った21歳女性を殺害
  • 1945年9月28日:東京駅で声をかけた21歳女性を殺害
  • 1945年12月29日:浅草雷門駅で出会った21歳女性を栃木県方面へ連れ出して殺害

犠牲者の多くは20代前半でした。

殺害後、小平は現金だけでなく、腕時計、履物、衣類、リュックなども奪っています。物資不足の時代には、日用品や衣類そのものが高い交換価値を持っていました。

遺体は山林などへ放置され、発見まで数か月を要した事件もあります。白骨化した状態で見つかった被害者もおり、身元確認や事件同士の関連づけは容易ではありませんでした。

最後の被害者は17歳|住所交換が逮捕への決定的な手掛かり

最後に有罪認定された事件は、1946年8月6日に起きました。

被害者は17歳の少女です。小平は同年6月、仕事を紹介すると声をかけ、少女と住所を交換していました。

8月に入ると、小平は少女の自宅を訪れます。その際、少女の母親が小平の顔を直接見ていました。

8月6日、少女は小平とともに外出。そのまま帰宅せず、8月17日に遺体で発見されました。

母親の証言と住所の記録から、小平の身元が浮上します。警察は勤務先などを確認し、1946年8月20日に小平を逮捕しました。

それまで小平は、駅で偶然出会った女性へ偽りの話を持ちかけ、身元につながる情報を残さないよう犯行を重ねていました。 最後の事件では、被害者と住所を交換し、家族にも顔を見られていたことが、逮捕へ結びついたのです。

逮捕後に相次いで余罪を供述|未解決事件との関連が判明

逮捕後、小平は最後の事件だけでなく、それ以前の複数の女性殺害について供述しました。 それまで別々の未解決事件として扱われていた女性の失踪や遺体発見が、一人の男による連続事件としてつながり始めます。

小平の供述をもとに捜査が行われ、最終的に10件の殺人事件で起訴されました。 また、小平は殺害へ至らなかった女性への性暴力についても、多数の犯行を供述したとされています。

ただし、逮捕後の発言や後年の書籍には、裏付けの取れていない余罪情報も含まれています。確定判決で認定された殺人は7件であり、それを超える人数を確定した被害者数として扱うべきではありません。

10件で起訴、7件有罪・3件無罪|自白だけでは有罪にできない

小平は、10件の女性殺害について起訴されました。

しかし公判では、そのうち3件への関与を否定します。裁判所は、捜査段階の供述だけでなく、遺体の状況、遺留品、目撃証言、現場との結びつきなどを検討しました。

その結果、7件については小平の犯行と認定。一方、3件については、合理的な疑いを排除できるだけの証拠がないとして無罪としました。

小平が自ら話した事件であっても、自白だけで自動的に有罪となったわけではありません。 「10人を殺害した罪で死刑になった」のではなく、10件で起訴され、7件の殺人について有罪となったという整理が正確です。

1947年6月、東京地裁が小平義雄に死刑判決

1947年6月18日、東京地方裁判所は小平義雄に死刑を言い渡しました。 判決では、女性の窮状につけ込み、虚偽の説明で人目のない場所へ誘い出した計画性、性暴力を加えた後に殺害した犯行態様、短期間に犯行を繰り返した危険性などが重く評価されました。

被害者は食料や仕事を求めていただけであり、事件につながるような落ち度はありません。 戦争末期から敗戦直後の混乱期に、生活に困る女性を選んで狙い続けた点も、この事件特有の悪質さでした。

控訴・上告はいずれも棄却|1948年に死刑確定

小平は東京地裁の死刑判決を不服として控訴しました。

しかし1948年、控訴審は一審の死刑判断を維持。小平側はさらに最高裁へ上告します。

1948年11月16日、最高裁は上告を棄却しました。これにより、7件の殺人について小平の死刑が確定します。

なお、小平事件の最高裁判決と、1948年3月に示された著名な「死刑合憲判決」は別の裁判です。 小平事件を、死刑制度が憲法上の「残虐な刑罰」に当たるかを初めて判断した事件として説明するのは正確ではありません。

1949年10月5日、宮城刑務所で死刑執行

死刑確定から約11か月後の1949年10月5日、小平義雄の刑が宮城刑務所で執行されました。 執行時の年齢は44歳です。

これにより小平本人に対する刑事手続きは終了しました。現在も収監されている、再審請求が続いているといった事件ではありません。

一方、有罪となった7件以外にも小平との関連を疑われた事件や、殺害に至らなかった性暴力被害があったとされています。

どこまでが小平の犯行だったのかは、刑の執行によって本人から確認する機会も失われました。確定判決を超える余罪については、未確認情報と区別する必要があります。

「第二小平事件」とは別の事件

小平事件の発覚後、女性へ仕事を紹介すると持ちかけ、山林へ誘い出して殺害する別の事件が起きました。 手口が似ていたことから、報道では「第二小平事件」と呼ばれています。

ただし、第二小平事件の犯人は小平義雄ではありません。小平事件の余罪でもなく、別の人物による独立した事件です。

また、後年の連続殺人犯が「群馬の小平」などと呼ばれた例もありますが、これも小平義雄との共犯関係を示す表現ではありません。

被害女性が置かれた困窮を、小平は接近手段に変えた

戦争末期から敗戦直後、都市では食料と生活物資が不足し、女性たちが駅から農村へ買い出しに向かう光景が日常化していた。 小平は『米や芋を譲る農家を知っている』『仕事を紹介する』と声をかけ、相手の切実な必要へ入り込んだ。

被害者が知らない男性の案内へ応じたことは、性暴力や殺害を受ける落ち度ではない。社会の混乱と困窮を利用して標的を選んだことが、事件固有の悪質性である。

10件の起訴から3件を無罪とした裁判

逮捕後、小平は複数の未解決事件について供述し、検察は女性10人の殺害で起訴した。 裁判所は自白を一括して信用せず、被害者の足取り、遺体の状況、遺留品、目撃証言、小平との接点を事件ごとに確認した。

その結果、7件では犯人性を認定した一方、3件は合理的疑いを排除できないとして無罪とした。小平が『10人殺害で死刑』となったという説明は正確ではない。

最後の17歳被害者が残した住所と、母親の目撃

1946年、17歳の少女は小平から仕事を紹介すると持ちかけられ、住所を交換していた。

小平は少女宅を訪ね、母親に顔を見られた後、少女と外出した。少女が戻らず遺体で発見されると、住所記録と母親の目撃が小平の身元へ直結した。

それまで駅で偶然接触し、関係を残さないようにしていた手口が、最後の事件では家族と書面の記録を残したことで崩れた。

死刑確定と1949年の執行

東京地裁は1947年6月18日、7件の殺人と性暴力・強盗などを認定して死刑を言い渡した。控訴審も維持し、最高裁は1948年11月16日に上告を棄却した。

1949年10月5日、宮城刑務所で死刑が執行された。執行時44歳だった。

小平事件の上告審は、1948年3月に死刑を合憲とした最高裁大法廷判決とは別事件である。小平事件を『死刑合憲判決の事件』と説明してはならない。

余罪の数字と『第二小平事件』を混ぜない

小平は殺害に至らなかった性暴力や、起訴されなかった殺人についても供述したとされる。

しかし、本人の供述だけで裏付けがなく、裁判で有罪にならなかった事件を、確定被害者へ加えることはできない。基準となるのは7件有罪・3件無罪という判決である。

後に似た誘い出し手口から『第二小平事件』と呼ばれた事件も、別人による独立した犯罪であり、小平義雄の余罪ではない。

事件から80年を超えて残る、被害者中心の記録

小平本人への刑事手続は1949年の執行で終了している。2026年現在、再審や収容状況を更新する事件ではない。

後年の書籍や映像は小平の言動・人物像を強く描くが、猟奇性だけを強調すると、生活を立て直そうとしていた女性たちの存在が後景に退く。

事件を記録する中心は、戦後の困窮を利用された女性7人の生命と、同じ手口で被害を受けた生存者、起訴と有罪の範囲を正確に区切ることである。

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