1936年5月18日、東京府東京市荒川区尾久町の待合で、料理店経営者の石田吉蔵(当時42歳)が絞殺されているのが見つかった。交際相手だった阿部定(当時31歳)は、石田の首を腰ひもで締めて死亡させ、遺体の一部を切り取って持ち去った。室内には阿部が書いた文字が残され、警察は早い段階から所在を追った。
阿部は事件から2日後、品川区内の旅館で逮捕された。殺人と死体損壊の罪に問われ、同年12月に東京刑事地方裁判所で懲役6年の判決を受けた。本人は上訴を放棄し、1941年に恩赦で出所した。事件は後年、映画や小説で「純愛」や男女の情念として表現されたが、刑事裁判で認定された中心事実は、石田の生命が奪われ、遺体が損壊された殺人事件である。
| 事件名 | 阿部定事件 |
|---|---|
| 発生日・期間 | 1936年 |
| 発生場所 | 東京府東京市荒川区尾久町(現在の東京都荒川区) |
| 事件概要 | 1936年、東京の待合で阿部定が交際相手の石田吉蔵を絞殺し、遺体を損壊した。 |
| 判決・現在の状況 | 懲役6年(上訴放棄、1941年に恩赦で出所)。有罪判決・服役終了 |
| 最終確認日 | 2026年8月1日 |
料理店で始まった阿部定と石田吉蔵の関係
阿部は東京の料理店で働き、店主だった石田と関係を持つようになった。石田には妻がおり、二人の関係は周囲に隠されていた。1936年春、二人は店を離れて旅館や待合を転々とし、長時間を同じ部屋で過ごす状態になった。
後年の作品では、この期間が互いだけを求めた生活として描かれることが多い。しかし、残された供述や裁判記録から確認できるのは、阿部が石田を他者へ渡したくないと考えるようになり、石田の首を締める行為を繰り返したこと、最終的に死亡させたことである。二人の関係性は、殺害への同意を意味しない。
阿部と石田が宿を転々とした期間については、供述、宿帳、関係者証言が主な資料となる。後世の作品は会話や心理を補っているが、記録からすべての場面を再現することはできない。確認できるのは、石田が妻のいる生活を離れて阿部と滞在し、阿部が関係の終わりや他者との接触を受け入れられないと語る状態になったことだ。親密さが深まった経過は、殺意の形成を検討する背景であって、犯行への合意を示す証拠ではない。
尾久町の待合で行われた絞殺
5月18日未明、阿部は石田の首へ腰ひもを巻き、締め付けて窒息死させた。首を締める行為はそれ以前にも行われていたが、この時は石田が死亡した後も救護を求めず、遺体を室内に残した。
阿部は刃物で遺体の一部を切り取り、紙などに包んで持ち出した。遺体や寝具には文字を書き、石田が自分のものであることを示す内容を残した。これらの行為は、事件の発見後に大きく報道され、殺人そのものよりも遺体損壊の特異性が強調される一因になった。
首を絞める行為が二人の間で以前から行われていたという供述は、事件を性愛の延長として語る材料になった。しかし、死亡するまで締め続けた時点で、行為の法的性質は殺人となる。石田が意識を失った後に阿部が医師や宿の者を呼ばず、遺体を損壊して立ち去った行動も、事故として救命を求めた場合とは異なる。裁判は関係の特異さより、殺意と死亡結果を中心に判断した。
旅館を移動した2日間と逮捕
阿部は待合を出た後、東京市内の旅館を移動した。所持品の中には石田の遺体から切り取った部分や衣類があり、警察は待合の関係者、宿泊記録、顔写真などを基に行方を捜した。事件が新聞で大きく報じられると、各地から目撃情報が寄せられた。
5月20日、警察は品川区の旅館で阿部を発見し、逮捕した。阿部は自分の名前を隠さず、石田を殺害したことを認めた。逮捕時の態度や供述は新聞で細かく伝えられ、読者の関心が本人の性格や男女関係へ向かう一方、被害者の死亡と遺族の被害は背景へ押しやられやすくなった。
逮捕までの二日間、阿部が遺体の一部を所持していた事実は、警察が本人確認を進める直接資料となった。大規模な新聞報道は捜索を助けた面がある一方、事件を見世物として拡散させた。旅館の従業員や宿泊者が疑わしい女性を探し、警察へ通報する状況が生まれたため、阿部は長期間身を隠すことができなかった。逮捕後は供述内容まで連日報じられ、刑事手続と大衆的な物語化が同時に進んだ。
供述で語られた独占欲と殺害の認識
取り調べで阿部は、石田を自分だけのものにしたかったという趣旨を述べた。首を締めれば死亡することは理解しており、犯行後に遺体の一部を持ち去った理由についても、自分から離れない形で所持したかったと説明した。
こうした供述は「愛情の極限」として引用されてきたが、裁判上は殺意、行為と死亡の因果関係、遺体損壊の故意を認定する資料だった。石田の側が死亡を望んでいたと認める確実な証拠はなく、親密な関係にあったことと、生命を奪う行為を正当化することは別の問題である。
独占欲という本人の説明は、動機の一部を示しても、犯行の全体を心理学的に確定するものではない。裁判資料で扱える心理は、本人が何を語り、どのような準備と行動を取ったかによって裏付けられる範囲に限られる。阿部は刃物を使って遺体を損壊し、石田との関係を示す文字を残した。その一連の行為から、死を偶然の結果として扱わず、石田を所有するという発想の下で行動したことが認定された。
殺人と死体損壊を審理した裁判
裁判は1936年11月に始まり、阿部は起訴事実を大筋で認めた。検察は殺人と死体損壊について懲役10年を求刑した。審理では犯行に至る関係、首を締めた方法、遺体を損壊した後の行動、責任能力が検討された。
同年12月21日、裁判所は懲役6年を言い渡した。阿部は法廷で上訴権を放棄し、判決は確定した。当時の刑法下で女性による恋愛関係の殺人がどのように評価されたかを示す一方、量刑が比較的短かったことは、その後の事件像にも影響した。
懲役6年という量刑は、現在の感覚だけで評価すると軽く見えるが、当時の法制度と裁判実務の中で決められた。検察の求刑より短い刑となった背景には、前科、犯行後の態度、男女関係の経過などが考慮されたとみられる。ただし、判決が殺人を愛情表現として肯定したわけではない。阿部が罪を認め上訴しなかったため、上級審で量刑や事実認定が再検討されることなく確定した。
服役、恩赦、出所後の生活
阿部は栃木刑務所に収容された。1940年の紀元二千六百年に伴う恩赦などで刑期が短縮され、1941年に出所した。出所後は偽名で働いた時期があり、後には自ら事件について語る機会も持った。
戦後、本人の所在や生活はたびたび報道されたが、晩年について確定できない情報も多い。死亡時期や場所を断定する資料は限られており、失踪した、尼になったといった説が混在する。確認できない話を事件の結末として扱うことはできない。
出所後の阿部は、事件名が広く知られていたため、身元を隠して生活する必要に迫られた。後には本人を訪ねる記者や作家が現れ、回想が作品や記事へ取り込まれたが、語られた内容には時期による違いもある。公的記録が乏しい晩年へ多くの説が付け加えられたのは、社会が実在の人物より「阿部定」という象徴を求め続けた結果でもある。確認できない死亡説や出家説は、刑事事件の事実として断定できない。
映画や小説が作った「阿部定」像
事件は多数の小説、演劇、映画の題材となり、阿部は実在の被告人から、情念や性愛を象徴する人物へ変えられていった。作品ごとに石田との関係や犯行時の心理が再構成され、史実と創作の境界が分かりにくくなった。
文化作品としての評価と刑事事件の事実は分けて読む必要がある。1936年5月18日に石田吉蔵が絞殺され、遺体を損壊されたこと、阿部定が逮捕されて殺人と死体損壊で有罪となったことが記録上の骨格である。「純愛」という呼び方は後世の解釈であり、判決が認定した法的性質ではない。
映画や小説では、石田の人格や意思も創作者によって再構成される。被害者が物語上の相手役へ縮小されると、殺害された事実が恋愛の結末として処理されやすい。事件を史実として読む場合、石田には家庭と生活があり、本人の生命を奪う権利を阿部は持っていなかったことを外せない。文化史上の影響を論じることはできるが、「純愛事件」という呼称をそのまま事実認定へ置き換えることはできない。
当時の新聞は遺体損壊の内容、阿部の供述、逮捕時の所持品を詳細に報じ、事件名を全国へ広めた。報道資料は当時の社会反応を知る手掛かりになるが、見出しや挿絵には女性の性を強調し、被害を娯楽化する表現も含まれる。現代の記事でその語り口をそのまま再現すると、石田の死と遺族の存在が再び背景へ退く。歴史的事件を扱う際も、当時報じられたことと、現在採用すべき表現を分けて判断する必要がある。
阿部の出所後については、本人の談話、作家の取材、周辺者の回想が残る一方、公的な戸籍や死亡記録が一般に確認されていない部分がある。最後に公に姿を見せた時期をもって死亡時期とすることはできず、行方不明後の説を断定することもできない。刑事手続として確定しているのは、懲役6年判決、恩赦による出所までである。事件後の文化的な「阿部定像」と、実在人物の確認可能な経歴を区別することが、長期的な記録では重要となる。
阿部定事件が起きた1936年には、女性の犯罪を性や恋愛へ還元する報道が一般的だった。阿部の職歴や性的経験は詳しく暴かれ、犯行の説明として繰り返された一方、男性加害者の殺人事件とは異なる見世物性が加わった。現代の記述では当時の差別的な語を引用する必要はなく、阿部がどのような法的行為で有罪となったかを平易に示せばよい。人物の性別や過去の職業は、殺意と実行行為に関係する範囲でのみ扱う。
石田の遺族や店の関係者については、後世の作品が創作した人物像と実際の記録が混在している。確認できない会話や感情を補えば読み物としては滑らかになるが、事件ノンフィクションとしては避けるべきである。最後は阿部の行方を謎として演出するのではなく、判決と出所後に確認できる活動までを示すのが適切となる。
阿部は上訴を放棄したため、控訴審で殺意や量刑が争われた記録はない。後世に広がった「石田も望んでいた」という説明は、確定判決で殺害への有効な同意が認められたことを意味しない。仮に首を締める行為への同意が一部あったとしても、生命を奪う結果について法的な責任が消えるわけではなく、裁判は殺人として有罪を確定した。
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