1995年9月6日、新潟県名立町(当時)の大毛無山で、行方不明になっていた弁護士・坂本堤の遺体が見つかった。同じ日、富山県魚津市の僧ヶ岳では妻・都子の遺体も発見される。4日後の9月10日、長野県大町市の湿地帯から長男・龍彦の遺体が見つかった。
一家が横浜市の自宅から姿を消したのは1989年11月4日未明。発見まで約6年、同僚の弁護士や家族、全国の弁護士会、市民は「どこかで生きている」と信じて救出活動を続けていた。地下鉄サリン事件後の強制捜査によってオウム真理教の犯罪が次々に明らかになる中、その長い失踪は、一家3人を標的にした組織的な殺人事件だったことが判明した。
| 発生 | 1989年11月4日未明 |
|---|---|
| 被害者 | 坂本堤(33歳)、妻・都子(29歳)、長男・龍彦(1歳2か月) |
| 背景 | 坂本がオウム真理教の被害相談、出家させられた子どもの救出などに取り組んでいた |
| 実行に関与した教団幹部ら | 村井秀夫、早川紀代秀、岡﨑一明、新實智光、中川智正、端本悟 |
| 遺体発見 | 1995年9月6日~10日、新潟・富山・長野の3県 |
| 裁判 | 2011年11月、中川智正の上告棄却により一家殺害事件に関する被告人の裁判が終結 |
弁護士になって約2年半、坂本堤が取り組んでいたのは「脱会したい家族」の問題だった
坂本は横浜法律事務所に所属する若手弁護士だった。神奈川県弁護士会によれば、事件当時の弁護士経験はまだ約2年半。それでも子どもや障害者など、社会的に弱い立場に置かれた人の権利問題に取り組み、1989年春からはオウム真理教をめぐる相談に深く関わるようになっていた。
相談の中心には、教団へ出家した家族を取り戻したいという親たちがいた。とりわけ未成年の子どもが家族から離れて教団施設で生活していること、信者や家族をめぐる金銭・寄付の問題などが争点になっていた。坂本は親たちの代理人として教団との交渉を続け、子どもの救出や被害回復を求める立場に立った。
公安調査庁のオウム真理教事件資料では、坂本は1989年5月ごろから出家信者の親らの依頼を受け、親子の面会や帰宅を求める交渉を進めていたとされる。東京都への情報提供も検討しており、教団側から見れば、個々の信者とのトラブルを扱う一人の弁護士ではなく、組織の活動そのものへ法的に切り込む存在になっていった。
10月31日の交渉は決裂した。2日後、殺害命令が出された
1989年10月末、教団内部では坂本への対応が協議された。10月31日には教団側の複数の人物が坂本の法律事務所を訪れ、坂本との間で話し合いが行われる。しかし、両者の主張は折り合わなかった。
公安調査庁が整理した事件経過によれば、この交渉後、麻原彰晃は坂本を教団にとって重大な障害とみなし、11月2日夜、村井秀夫、早川紀代秀、岡﨑一明、新實智光、中川智正に殺害を指示した。端本悟も加わり、翌3日、6人は坂本の行動を追いながら実行の機会を探った。
当初の標的は坂本本人だった。ところが計画どおりに接触できず、3日深夜、実行役から報告を受けた麻原の指示によって計画は変化する。坂本が自宅にいる可能性を踏まえ、家の中へ入り、妻子も含めて殺害する方針になった。
一家3人が眠る自宅へ6人が入った
11月4日午前3時すぎ、6人は横浜市の坂本宅へ侵入した。坂本33歳、都子29歳、龍彦1歳2か月。一家3人は自宅で殺害された。事件は坂本の弁護士活動を止める目的から始まり、最終的にはその妻と幼い子どもまで被害者に含む犯行となった。
3人の遺体はその場に残されなかった。教団側は遺体を山梨県上九一色村の施設へ運んだ後、発見を困難にするため、新潟、富山、長野の離れた山中へそれぞれ埋めた。自宅から一家全員が消えたため、事件直後の外形は「一家失踪」として残った。
この隠蔽が、事件の解明を長期化させる一因になる。殺害されたことが確認できないまま時間が過ぎ、残された側は「拉致され、どこかに監禁されているのではないか」という可能性も捨て切れなかった。
「生きている」と信じて続いた救出活動
一家の失踪後、日本弁護士連合会、各地の弁護士会、「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」などが大規模な救出活動を始めた。所属会だった横浜弁護士会(現・神奈川県弁護士会)も救出対策本部を設け、集会や街頭活動、情報提供の呼びかけを続けた。
神奈川県弁護士会の1999年の談話によれば、会は一家が行方不明の間、さまざまな救出活動を展開した。1991年の時点でも弁護士会側は、単なる自主的な失踪ではなく、坂本の弁護士業務に関連した強制的な連れ去りの疑いを強く意識していた。
ただし、救出活動の側が抱いた疑いと、刑事事件として証明された事実は別である。事件がオウム真理教の組織的犯行だったと具体的に明らかになるまでには、1995年の強制捜査を待たなければならなかった。
「生きてかえれ」を合言葉にした約6年――失踪事件の時間そのものが長期化した
神奈川県弁護士会の記念資料には、遺体が見つかる前の時期を振り返り、「生きてかえれ」を合言葉に救出への希望をつないでいたという当時の証言が残る。殺害を前提に追悼するのではなく、坂本本人、都子、龍彦の3人を生きたまま取り戻すことが活動の目的だった。
救出対策本部は集会を開き、街頭署名を行い、全国の弁護士や市民へ情報提供を求めた。時間が経過しても活動が途切れなかったため、坂本一家の失踪は一法律事務所だけの問題ではなく、依頼者のために活動する弁護士が家族ごと突然姿を消した事件として広く共有されるようになった。
その過程で、弁護士業務を理由にした暴力や脅迫へ組織的に対応する必要性も意識されるようになった。横浜弁護士会が1993年7月に弁護士業務妨害対策委員会を設けた時点で、一家の安否はまだ分かっていなかった。事件の全容が判明する前から、失踪自体が弁護士業務への重大な妨害として受け止められていたことになる。
地下鉄サリン事件後の捜査で、6年間止まっていた時間が動き出す
1995年3月20日、東京の地下鉄でサリンが散布され、多数の死傷者を出した。オウム真理教への大規模な捜査が始まると、それまで個別に追われていた複数の事件についても教団関係者の供述や証拠が集まり始めた。坂本一家失踪事件も、その過程で全体像が明らかになっていく。
神奈川県弁護士会の資料によれば、坂本の遺体は1995年9月6日、新潟県名立町の大毛無山山中から発見された。都子の遺体も同日、富山県魚津市の僧ヶ岳山中で見つかる。龍彦の遺体は9月10日、長野県大町市の湿地帯から発見された。
一家が姿を消してから約6年。全国で展開された「救出」の活動は、3人の生還という形では終わらなかった。同僚弁護士たちは、長く生存を信じて活動してきた末に、3人が事件当日に殺害されていた事実と向き合うことになった。
約2万6000人が参列した合同葬と、事件が残した弁護士業務妨害対策
1995年10月22日、横浜アリーナで日弁連・横浜弁護士会による一家の合同葬が営まれた。神奈川県弁護士会の沿革では、約2万6000人の市民が参加したと記録されている。弁護士仲間だけの追悼ではなく、6年間にわたる救出運動に関わった多くの人々が集まる場となった。
事件は弁護士会の制度にも影響を残した。横浜弁護士会は一家がまだ行方不明だった1993年、弁護士業務妨害対策委員会を設置した。1996年には日弁連にも同種の委員会が設けられ、その後、全国の弁護士会へ対策組織が広がっていった。
1997年には、3人の遺体が見つかった各地にメモリアルが設置された。事件は「一人の弁護士が依頼人のために活動した結果、その業務を暴力で封じるため本人と家族が殺害された事件」として、弁護士業務妨害対策の原点の一つに位置付けられている。
日弁連には1996年6月、弁護士業務妨害対策委員会が設置された。神奈川県弁護士会の2025年の談話では、その後2016年までに全国すべての弁護士会に同様の組織が整備されたとしている。坂本一家事件をきっかけに始まった対策が、個別事件への対応から全国的な仕組みへ広がった。
この制度的な変化は、坂本の死を「危険な宗教団体と対立した特殊な事件」として切り離さないためのものでもある。依頼人の代理として相手方と交渉する弁護士は、相手方から反発や脅迫を受けることがある。弁護士会は、一家事件をその最悪の形として記憶し、業務妨害を弁護士個人ではなく組織で支える課題として扱うようになった。
裁判は複数のオウム事件とともに長期化した
坂本一家殺害に関与した教団幹部らは、松本サリン事件や地下鉄サリン事件など別の重大事件とあわせて裁かれた者が多く、司法手続は長期間に及んだ。麻原彰晃には2004年に東京地裁が死刑を言い渡し、2006年に確定している。
一家殺害事件について最後まで上級審が続いた被告人の一人が中川智正だった。2011年11月18日、最高裁第二小法廷は中川の上告を棄却した。神奈川県弁護士会は、この判決によって坂本一家殺害事件の被告人に対する裁判がすべて終結したとする談話を出している。
2018年7月には、オウム真理教事件で死刑が確定していた13人の刑が2回に分けて執行された。坂本一家事件に関与して死刑が確定していた早川紀代秀、新實智光、中川智正、岡﨑一明、端本悟らも含まれていた。
事件の核心は、弁護士への私怨ではなく「被害救済を止めるための殺害」だった
坂本堤が教団と対立した出発点は、個人的な争いではない。出家した子どもを家族のもとへ戻したい、教団との金銭問題を解決したいという依頼を受け、弁護士として交渉したことだった。教団は、その法的活動を組織への脅威と捉えた。
結果として奪われたのは、依頼人の代理人だった坂本だけではなかった。都子と1歳の龍彦も殺害され、遺体は3県に分散して隠された。発覚を遅らせるための行為が、残された家族や同僚に約6年間「生存の可能性」を追わせることにもなった。
神奈川県弁護士会は現在も、坂本一家事件を弁護士業務への暴力的妨害として位置付け、追悼と業務妨害対策を続けている。事件から30年以上が過ぎても、その意味は殺人事件の刑事記録だけにとどまっていない。
参考資料・出典
- 公安調査庁「オウム真理教事件」
- 神奈川県弁護士会「オウム事件中川被告判決に関する会長談話」(2011年11月18日)
- 神奈川県弁護士会「坂本堤弁護士一家殺害事件から35年を迎えての会長談話」(2024年)
- 神奈川県弁護士会「会長談話 坂本事件から10年を経て」(1999年)
- 神奈川県弁護士会「神奈川県弁護士会の沿革」
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