2024年9月26日、静岡地裁は袴田巌さんに再審無罪を言い渡した。判決が認定したのは、単なる証拠不足ではない。捜査機関が作成した自白調書、犯行着衣とされた「5点の衣類」、そのズボンと結び付けるための布片について、捏造があったと判断した。検察は控訴せず、同年10月9日に無罪が確定した。
袴田さんは1966年に逮捕され、1980年に死刑が確定。2014年の再審開始決定で約48年ぶりに釈放されたが、再審開始そのものが最高裁まで争われ、無罪判決までさらに10年を要した。無罪確定後も、刑事補償、国家賠償請求、検事総長談話をめぐる訴訟が続いている。
| 事件発生 | 1966年6月30日 |
|---|---|
| 場所 | 静岡県清水市(現・静岡市清水区) |
| 被害者 | 橋本藤雄さん、妻ちゑ子さん、次女扶示子さん、長男雅一郎さん |
| 被告人とされた人 | 袴田巌さん |
| 一審 | 1968年9月11日、死刑 |
| 死刑確定 | 1980年11月19日、最高裁が上告棄却 |
| 第2次再審開始決定 | 2014年3月27日 |
| 再審開始確定 | 2023年3月 |
| 再審無罪 | 2024年9月26日 |
| 無罪確定 | 2024年10月9日 |
| 刑事補償 | 2025年3月、約2億1700万円 |
| 現在 | 国家賠償請求などの民事訴訟が継続 |
みそ製造会社専務一家4人が死亡した
1966年6月30日午前1時30分ごろ、清水市の一家の住宅兼事務所で火災が発生し、みそ製造会社専務の橋本藤雄さん、妻ちゑ子さん、次女扶示子さん、長男雅一郎さんが遺体で見つかった。遺体には多数の刺し傷があり、警察は強盗殺人・放火事件として捜査した。
同じ会社の住み込み従業員だった袴田さんの居室から見つかったパジャマに血痕や混合油が付着しているとされ、同年8月18日に逮捕された。取調べは長時間に及び、袴田さんは犯行を認める供述をした後、公判では無実を主張した。
一審で採用された自白調書は1通だけだった
捜査段階では多数の供述調書が作成されたが、一審の静岡地裁は警察官作成の調書を任意性の問題から証拠として採用せず、検察官作成の1通だけを採用した。袴田さんは自白は強制されたものだと訴えた。
静岡県警が再審無罪判決後に行った事実確認でも、当時の録音から、被害者の写真を示しながら繰り返し謝罪を求めたことや、勾留長期化をほのめかして自白を迫ったことが確認された。県警自身が、取調べの態様は不適正だったと言わざるを得ないと整理している。
起訴から約1年後に「5点の衣類」が現れた
当初、検察は袴田さんのパジャマを犯行時の着衣として立証していた。しかし1967年8月31日、事件から約1年2カ月後、会社のみそタンクから血痕の付いたシャツやズボンなど「5点の衣類」が発見された。検察は犯行着衣をパジャマから5点の衣類へ変更した。
1968年9月11日、静岡地裁は死刑を言い渡した。東京高裁の控訴棄却を経て、最高裁は1980年11月19日に上告を棄却し、死刑が確定した。
再審請求で問われ続けた「衣類の血痕の赤み」
袴田さんは1981年に第一次再審請求を申し立てたが、2008年までに退けられた。同年、姉のひで子さんが第二次再審請求を申し立てる。中心となったのが、5点の衣類に残る血痕の色と、衣類が本当に事件直後からみそに漬かっていたのかという問題だった。
弁護側は実験などから、血痕が1年以上みそに漬かれば赤みは残らないと主張した。衣類のサイズやDNA型をめぐる鑑定も提出され、確定判決が犯行着衣とした証拠の成立過程そのものが争われた。
2014年、再審開始と死刑・拘置の執行停止
静岡地裁は2014年3月27日、再審開始を決定するとともに、死刑と拘置の執行を停止した。袴田さんは同日釈放され、逮捕から約48年ぶりに拘禁を解かれた。
ただし、この段階で無罪が確定したわけではない。検察が即時抗告し、東京高裁はいったん再審開始決定を取り消した。最高裁が2020年に高裁決定を取り消して審理を差し戻し、2023年3月、東京高裁が再審開始を認めたことでようやく再審公判へ進んだ。
再審判決は「3つの捏造」を認定した
2024年9月26日の静岡地裁判決は、検察官調書、5点の衣類、ズボンと結び付けるため袴田さんの実家から押収された布片の3点について、捜査機関による捏造があったと認定した。
特に5点の衣類について、判決は1年以上みそに漬かった血痕に赤みが残るとは認められないとし、発見に近い時期に血痕を付けるなどの加工がされたと判断した。これにより、確定判決の中心的な物証は証拠能力を失った。
検察は控訴せず、2024年10月9日に無罪確定
畝本直美検事総長は判決内容に強い不満を示しながらも、再審開始まで長期間を要したことなどを踏まえ、控訴しない方針を表明した。検察が上訴権を放棄したことで、2024年10月9日に袴田さんの無罪が確定した。
静岡県警は同月、袴田さん側に謝罪した。10月21日には県警本部長が袴田さんと姉ひで子さんのもとを訪れ、逮捕から無罪確定まで長期にわたり負担をかけたとして直接謝罪している。
2025年、刑事補償は約2億1700万円
袴田さん側は無罪確定後、長期間の身体拘束に対する刑事補償を請求した。静岡地裁は2025年3月24日、拘束された1万7389日について、刑事補償法上の1日当たり上限額を適用し、約2億1700万円を交付する決定を出した。
地裁は、約33年間が死刑執行のための拘束だったことや、精神的・身体的苦痛が極めて大きかったことを指摘した。弁護団によれば、刑事補償として過去最高額とみられる。
無罪確定後も、国家賠償請求訴訟が続いている
刑事補償は、無罪となった人の拘束期間に対して法律に基づき補償する制度であり、警察や検察の違法行為に対する損害賠償とは別の手続である。袴田さんは2025年10月9日、国と静岡県を相手取り、約6億円の損害賠償を求めて静岡地裁に提訴した。
弁護団は、証拠捏造、違法な取調べや証拠開示の問題に加え、長期間にわたり誤判を是正できなかった司法の責任も問う方針を示している。2026年8月26日時点で、この国家賠償請求訴訟は係属中である。
検事総長談話をめぐる別の損害賠償訴訟
袴田さん側は、無罪判決後に検事総長が発表した談話によって名誉を傷つけられたとして、国に550万円の損害賠償などを求める別の訴訟も起こしている。2026年3月の第1回口頭弁論で、国は談話は袴田さんを犯人視したものではないとして請求棄却を求めた。
同年6月の口頭弁論では、袴田さん側が準備書面を提出した。再審無罪そのものは確定しているが、その後の国家機関の責任や名誉回復をどのように扱うかは、民事裁判でなお争われている。
一家4人の事件と袴田さんの無罪は分けて考える必要がある
再審判決によって袴田さんの無罪は確定した。一方、橋本藤雄さん、ちゑ子さん、扶示子さん、雅一郎さんの4人が死亡した事件について、別の人物が犯人として起訴され有罪判決を受けたわけではない。
袴田事件の現在地は、「元死刑確定者が無罪になった」という一点だけでは捉えきれない。刑事裁判では証拠捏造が認定され、無罪が確定した。その後は、約半世紀に及んだ拘禁と誤判の責任を誰がどの範囲で負うのかが、国家賠償など別の裁判で問われている。
参考資料・出典
- 静岡県警察「再審無罪判決を踏まえた事実確認の結果について」
- 衆議院「いわゆる『袴田事件』無罪判決に対する『検事総長談話』等に関する質問主意書」
- 共同通信/熊本日日新聞「袴田さんに補償上限2億円超交付」
- 共同通信/熊本日日新聞「再審無罪の袴田さん、国賠提訴」
- 静岡新聞アットエス「検事総長談話をめぐる損害賠償訴訟」
- 日テレNEWS「静岡県警本部長が袴田巌さんに直接謝罪」
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