1979年1月26日午後、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店へ、猟銃を持った梅川昭美(当時30歳)が押し入った。梅川は現金5000万円を要求し、店内と駆け付けた警察官へ発砲。行員2人と警察官2人の計4人が死亡し、さらに行員らが負傷した。
逃走できなくなった梅川は、多数の客と行員を店内へ残して立てこもった。事件は1月28日まで約42時間続き、大阪府警の特殊部隊が突入。梅川は警察官の銃撃を受け、搬送後に死亡した。この事件は、人質救出だけでなく猟銃所持許可の審査や特殊部隊運用にも影響を残した。
| 発生 | 1979年1月26日 |
|---|---|
| 終結 | 1979年1月28日 |
| 場所 | 大阪市住吉区・三菱銀行北畠支店 |
| 犯行者 | 梅川昭美(当時30歳) |
| 要求 | 現金5000万円 |
| 死亡 | 行員2人、警察官2人の計4人 |
| 負傷 | 警察白書では3人が重傷・重軽傷 |
| 人質数 | 警察庁資料で37人と43人の二つの記録 |
| 立てこもり | 約42時間 |
| 終結方法 | 大阪府警特殊部隊が突入 |
| 刑事手続 | 被疑者死亡のまま書類送致 |
5000万円を要求――数分のうちに銀行強盗から多数殺傷事件へ変わった
昭和55年警察白書によると、梅川は北畠支店へ散弾銃を持って押し入り、現金5000万円を要求した。行員が通報しようとしたことなどをきっかけに発砲し、店内の行員が死亡した。
さらに事件を知って店内へ入った警察官にも発砲し、警察官2人が死亡。その後、支店長も撃たれ、死者は行員2人、警察官2人の計4人となった。発生直後から複数の死者が出たことで、通常の銀行強盗としての逃走局面は早い段階で失われた。
シャッターを閉め、人質を店内へ――立てこもりは約42時間に
周囲を警察に包囲された梅川は、行員にシャッターを下ろさせ、客と行員を人質として店内に立てこもった。警察庁の平成12年白書は、客と行員計37人を人質にしたと記録している。
一方、事件翌年にまとめられた昭和55年白書は「行員及び客43人」とする。同じ警察庁の公式資料でも人数が一致していないため、本件では単一の人数に固定せず、37人・43人という二つの記録が残っていること自体を示す。
人質を警察との間に並ばせ、抵抗しにくい状態を作った
立てこもり中、梅川は人質を出入口付近などに並ばせ、警察から自分を狙いにくくする形で利用した。平成12年警察白書は、人質の行員を「盾代わり」にしたことを事件の特徴として記している。
また、重傷を負った行員に対し、別の行員へ刃物を使うよう命じるなど、店内の人質同士に加害行為を強いる場面もあった。警察が単純な一斉突入を選べないほど、人質が犯行者の周囲に配置されていた。
外から撃てない、人質も近い――警察は突入の機会を待った
警察は店の周囲を封鎖し、説得や情報収集を続けながら救出の機会を探った。犯人だけを安全に狙える状況が限られ、突入によって人質が撃たれる危険も高かった。
この時期、大阪府警にはすでに特殊事件へ対応する部隊が置かれていた。警察庁の平成9年白書は、1977年のダッカ事件を契機に警視庁と大阪府警へ特殊部隊を設置し、1979年の三菱銀行北畠支店事件で大阪府警の特殊部隊が事件解決に貢献したと記録している。
1月28日朝、人質が梅川から離れた瞬間に突入
立てこもり開始から約42時間後の1月28日、大阪府警は店内へ強行突入した。警察庁の記録では、人質が梅川の周囲から離れた機会をとらえて部隊が入り、梅川を狙撃した。
梅川は銃撃を受けて身柄を確保されたが、その後死亡した。人質は救出され、2泊3日に及んだ立てこもりは終結した。犯行者本人が死亡したため、公判で事実関係や責任能力を争う刑事裁判は開かれず、警察庁は被疑者死亡のまま書類送致されたと記録している。
事件後、猟銃の「所持許可を出した後」まで管理強化へ
この事件で使われた猟銃は、梅川が自ら所持許可を受けていたものだった。昭和55年警察白書は、この点が銃砲行政全般へ問題を投げかけたとして、事件後の対応を詳しく記している。
警察は、凶悪犯罪の前科・前歴などを持つ申請者について調査を徹底し、許可審査を厳格化する方針を示した。さらに、一度許可した後も所持者の実態を把握し、犯罪や異常な行動など不適格な事情が判明した場合には許可取消しを積極的に行うとした。
三菱銀行事件を経験した特殊部隊は、後のSAT制度へつながった
警視庁と大阪府警の特殊部隊は、当時その存在自体が広く知られる組織ではなかった。平成9年警察白書によると、これらの部隊はその後も重大な人質・ハイジャック事件へ投入され、1995年の全日空機ハイジャック事件でも活動した。
1996年4月、警察は特殊部隊をSATとして整備した。三菱銀行事件だけがSAT創設の直接原因というわけではないが、警察庁自身が、北畠支店事件を特殊部隊が事件解決に貢献した代表例の一つとして位置付けている。
「37人」と「43人」――数字の違いを無理に一つへ揃えない
本件では、人質数のように同じ警察庁資料でも表記が異なる数字がある。昭和55年白書は43人、事件から約20年後の平成12年白書は37人。どちらも警察庁の公式記録で、公開資料だけから差が生じた理由までは読み取れない。
少なくとも、多数の客・行員が人質となり、4人が殺害され、3人が重傷・重軽傷を負ったこと、そして約42時間後の突入で終結したことは公式記録で一致している。
銀行強盗の42時間は、銃器対策と人質救出の記録として残った
警察庁は平成16年白書の「日本警察50年」の中でも、三菱銀行北畠支店の強盗殺人・人質立てこもり事件を昭和50年代の主要事件として挙げている。
事件の重大さは、梅川が店内で何をしたかだけにあるのではない。所持許可を受けた猟銃が4人の殺害に使われたこと、多数の人質を前に通常の逮捕活動が困難になったこと、そして特殊部隊による突入という選択が必要になったこと。その後の銃砲行政と人質事件対応を考える上でも、1979年1月の42時間は警察史に残り続けている。
1979年は金融機関強盗が急増――この事件はその中でも突出していた
昭和55年警察白書によると、1979年の金融機関対象強盗は前年より大幅に増え、銃器使用事件や人質を伴う犯行も目立っていた。北畠支店事件は、その中でも4人が死亡し多数の人質が取られたことで、金融機関強盗の凶悪化を象徴する事件として記録された。
単に銀行側の防犯強化だけではなく、銃砲所持者の適格性審査、人質事件での突入判断、特殊部隊の運用まで複数の警察分野に影響が及んだ点が、この事件の特徴だった。
警察白書は、事件を猟銃行政全般の見直しにつながった事例として記録
事件翌年の警察白書は、梅川が正式な所持許可を受けた猟銃を犯行に使ったことを重く見ている。許可申請時の調査だけでなく、許可後も所持者の生活状況や犯罪歴、問題行動を把握し、不適格な事情が見つかれば取消しを行うという管理強化が打ち出された。
人質事件の終結方法だけでなく、そもそも危険な人物へ銃を持たせない制度をどう運用するかまで議論が広がったことが、三菱銀行事件の大きな余波だった。
参考資料・出典
- 警察庁「昭和55年警察白書 第4章」三菱銀行北畠支店事件
- 警察庁「昭和55年警察白書 第6章」三菱銀行事件と猟銃の取締り対策
- 警察庁「平成12年警察白書 第1章第1節」主要事件の概要
- 警察庁「平成9年警察白書」特殊部隊(SAT)の設置
- 警察庁「平成16年警察白書」昭和50年代の日本警察
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