寿産院事件は、1948年1月、東京都新宿区にあった民間施設「寿産院」で、多数の乳児が十分な食事や保温、医療を受けられず死亡していたことが発覚した事件である。一審ではミユキに懲役8年、猛に懲役4年が言い渡された。その後、控訴審でミユキは懲役4年、猛は懲役2年に減刑され、1953年に判決が確定した。
- 寿産院で多数の乳児が死亡した経緯
- 葬儀業者への職務質問から事件が発覚した状況
- 石川ミユキ夫妻が乳児を預かって利益を得ていた仕組み
- 死亡者数が資料によって異なる理由
- 27人が起訴対象となり、5人について殺人が認定された裁判
- 直接手を下さない不作為の殺人が成立した理由
- 事件後に乳児院や里親制度の整備が進められた経緯
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事件名 | 寿産院事件 |
| 別の呼称 | 寿産院乳児大量死事件、寿産院乳児殺害事件 |
| 主な発生期間 | 1944年ごろから1948年1月 |
| 事件発覚 | 1948年1月12日 |
| 発生場所 | 東京都新宿区牛込柳町、現在の市谷柳町付近 |
| 施設 | 民間施設「寿産院」 |
| 被害者 | 寿産院へ預けられた乳児 |
| 死亡者数 | 正確な総数は不明。警察は84人前後が死亡したとみて捜査 |
| 起訴対象 | 乳児27人に対する殺人 |
| 裁判で認定された殺人 | 乳児5人 |
| 主な死因 | 栄養失調、餓死、凍死、肺炎など |
| 逮捕された人物 | 石川ミユキ、石川猛、葬儀業者など |
| 石川ミユキの立場 | 助産婦、寿産院の経営者 |
| 石川猛の立場 | ミユキの夫、寿産院の共同経営者 |
| 逮捕 | 1948年1月15日 |
| 一審判決 | 1948年10月11日、ミユキに懲役8年、猛に懲役4年 |
| 控訴審判決 | 1952年4月28日、ミユキに懲役4年、猛に懲役2年 |
| 判決確定 | 1953年、最高裁が上告を棄却 |
| 現在の状況 | 刑事手続は終了。正確な死亡者数や全被害者の身元は未確定 |
寿産院とはどのような施設だったのか
寿産院は、現在の東京都新宿区市谷柳町付近にあった民間の産院である。石川ミユキは東京帝国大学病院付属の産婆講習科を修了し、助産婦の資格を持っていた。地域の産婆会で役職を務めるなど、表面上は助産の専門家として一定の社会的信用を得ていた人物である。
夫の石川猛は元警察官で、軍隊では憲兵を経験したとされている。夫妻は寿産院を共同で運営していた。寿産院では出産の介助だけでなく、親が育てられない乳児を預かり、子どもを求める家庭へ養子として紹介する業務も行っていた。当時、このような施設は「特殊産院」と呼ばれることがあり、民間の助産婦が乳児の預かりや養子縁組の仲介を行う例は、寿産院だけではなかった。
新聞広告で乳児を募集
寿産院は新聞などへ広告を出し、子どもを育てられない親から乳児を引き取っていた。広告では、乳児を預かることや、子どもを希望する家庭からの相談に応じることを案内していたとされている。寿産院へ乳児を預けたのは、生活に困窮した家庭、配偶者のいない状態で出産した女性、家族へ妊娠を知られることを恐れた女性などだった。
戦後直後は住宅や食料が不足し、仕事や生活基盤を失った人も多く、子どもを育てることが難しい状況に置かれた家庭が少なくなかった。当時は未婚での出産や婚外子に対する差別も強く、親が実名や正確な住所を残さず、子どもとの関係を断つように預ける例もあった。こうした親の困窮や社会的な孤立は、乳児へ必要な養育を行わなかった寿産院側の責任を軽くするものではない。
1人につき数千円の養育費を受け取る
寿産院は、乳児を引き取る際、親から1人につき数千円の養育費を受け取っていた。資料によって金額には違いがありますが、5000円から8000円程度、場合によっては1万円前後を受け取ったとされている。戦後の激しい物価上昇を考慮しても、当時の家庭にとっては大きな負担となる金額だった。
親は子どもが養育され、将来は適切な家庭へ引き取られることを期待して金を渡していた。しかし、寿産院は受け取った養育費を乳児の十分な食事や医療へ使用せず、夫妻の利益として蓄えていたとみられている。
乳児を希望者へ有料であっせん
寿産院は、預かった乳児を子どもが欲しい家庭へ紹介していた。乳児を引き取る側からも数百円を受け取り、外見などによって金額に差を付けたとする証言が残されている。正式な行政機関が家庭環境や養育能力を確認したうえで行う現在の里親委託とは異なり、石川夫妻の判断で乳児が引き渡されていた。
親から養育費を受け取り、さらに引き取り希望者からも金銭を得ることで、夫妻は同じ乳児から二重に利益を得られる仕組みを作っていた。一方、すぐに引き取り手が見つからない乳児は院内に残され、食事や保温を制限された状態で衰弱していった。
配給品も十分に乳児へ与えられず
戦後の日本では食料が配給制となり、乳児を養育する施設にはミルク、砂糖、米などが配給されていた。寿産院も、預かっている乳児の人数に応じて配給品を受け取っていた。しかし、捜査では配給された食料の一部が乳児へ与えられず、闇市場などへ流された疑いが調べられた。
摘発時には、院内からミルク、砂糖、米などが押収されている。食料が全く存在しなかったのではなく、乳児へ必要な量を与えずに保管または売却していたことが、夫妻の責任を判断する重要な事情となった。
乳児が置かれていた劣悪な環境
寿産院に預けられた乳児は、成長に必要な量のミルクや食事を与えられていなかった。十分な入浴や着替えも行われず、寒い時期でも薄い肌着だけで過ごしていた乳児がいたとされている。衰弱や肺炎の症状が現れても、早い段階で医師の診察を受けさせず、死亡直前になってから診察を求めることもあった。
院内で働いていた助手が、食事の量を増やすよう石川ミユキへ求めたものの、受け入れられなかったとの証言もある。乳児の泣き声が絶えず、預けられた後に急速に痩せていく子どももった。確定判決は、夫妻が乳児の生命を守る責任を負いながら、死亡する危険を認識して必要な養育を行わなかったと判断した。
1948年1月12日、乳児の遺体を運ぶ葬儀業者
事件発覚のきっかけとなったのは、1948年1月12日午後7時30分ごろの職務質問だった。東京都新宿区弁天町付近を警戒していた早稲田警察署の警察官が、自転車で木箱を運んでいた葬儀業者を呼び止める。警察官が荷台の箱を確認すると、中から乳児の遺体が見つかった。
葬儀業者は、遺体は寿産院から火葬を依頼されたもので、その日だけでもほかに複数の乳児の遺体を運んだと説明した。さらに、前年から寿産院の依頼で20体以上の乳児の遺体を扱っていたと供述する。一つの産院から短期間に多数の乳児の遺体が運び出されている異常な状況を受け、警察は寿産院の内偵を始めた。
寿産院への立ち入りで衰弱した乳児を発見
警察が寿産院へ立ち入った際、院内には複数の乳児が残されていた。生存していた乳児はいずれも痩せ、真冬にもかかわらず十分な衣服や暖房がない状態だったとされている。当時の記録では、7人の乳児が保護され、そのうち一部は救出後も回復できず死亡した。
院内からは、死亡した乳児の遺骨を納めた容器や、乳児の出入りを記録した帳簿なども押収された。しかし、帳簿の記載、死亡診断書、埋葬許可の記録には一致しない部分があった。乳児の親が偽名や不正確な住所を伝えていた例もあり、預けられた子ども全員の身元とその後を確認することは困難だった。
1月15日、石川ミユキ夫妻を逮捕
警視庁は寿産院の帳簿、遺体の運搬記録、医師の書類、配給品の状況などを調べた。1948年1月15日、寿産院を経営していた石川ミユキと夫の石川猛が逮捕される。乳児の遺体を運んでいた葬儀業者や、死亡に関する書類を作成した医師らについても捜査が行われた。
夫妻は、親から引き取りを拒否された子どもを慈善的に預かっていたという趣旨の説明をした。また、戦後の食糧事情が悪く、乳児が死亡したのは自分たちだけの責任ではないと主張している。しかし、警察と検察は、食料や金銭を得ながら意図的に養育を制限していたとして、殺人事件として捜査した。
解剖で餓死・凍死・肺炎などを確認
事件発覚時に運び出されていた乳児の遺体について、司法解剖が行われた。解剖では、栄養失調や餓死、寒さによる凍死、肺炎などが死因として確認または疑われている。胃や腸に食物がほとんど残っておらず、死亡前に十分な食事を与えられていなかったことを示す所見もあった。
一方、すでに火葬されていた乳児については遺体を再検査できず、帳簿や関係者の証言だけで死因を証明しなければならなかった。これが、多数の死亡が疑われながら、刑事裁判で殺人を認定できた人数が限られた大きな理由である。
死亡した乳児は何人だったのか
寿産院事件では、死亡した乳児の人数について複数の数字が伝えられている。警視庁の捜査や当時の報道では、84人または85人が死亡したとの数字が使用された。新宿区へ提出された死亡関係の書類などから、103人が死亡したとする資料もある。
さらに、寿産院へ預けられた後に所在を確認できない乳児を含め、169人が死亡したとする記述も広まった。しかし、169人全員について死亡が確認されたわけではない。乳児が別の家庭へ引き取られたのか、死亡したのか、帳簿上だけ存在したのかを確認できない例が含まれていた可能性がある。
そのため、事件の死亡者数を一つの数字に断定することはできず、「少なくとも80人を超える死亡が疑われた」とするのが慎重な表現である。
検察が立件したのは乳児27人の殺人
警察は多数の乳児が死亡したとみていましたが、刑事裁判では、個別の被害者ごとに死因と夫妻の行為を証明する必要がある。検察は記録や証言を集め、1946年から1948年に死亡した乳児27人について殺人罪を立件した。検察側は、夫妻が乳児へ必要な食事を与えず、衰弱しても治療を受けさせなかったことによって死亡させたと主張する。
石川ミユキには懲役15年、石川猛には懲役7年を求刑した。助手として働いていた女性も殺人に関与したとして起訴され、懲役3年を求刑されている。
直接手を下さない「不作為の殺人」
寿産院事件では、乳児を刃物や薬物で直接殺害したと認定されたわけではない。争点となったのは、生命を守る義務を負う人物が、必要な食事、保温、治療を意図的に行わず、死亡させた場合に殺人罪が成立するかという問題だった。このように、法律上行うべき行為をしないことで犯罪結果を生じさせることを「不作為犯」と呼ぶ。
石川夫妻は、親から金を受け取り、乳児を引き取ったことで、食事や医療を提供し、生命を守る責任を負っていた。裁判所は、乳児が衰弱して死亡する可能性を認識しながら養育を制限した行為について、単なる世話の不足や過失ではなく、殺人に当たると判断した。
1948年、東京地裁が5人の殺人を認定
1948年10月11日、東京地裁は寿産院事件の判決を言い渡した。裁判所は、検察が起訴した乳児27人のうち、多くについては死因や死亡までの経緯を十分に証明できないと判断した。一方、5人については、夫妻が共謀して必要な栄養を与えず、死亡させたと認定した。
石川ミユキには懲役8年、石川猛には懲役4年が言い渡される。助手の女性については、乳児の食事を増やすよう求めるなど、できる範囲で養育に努めていたとして無罪となった。裁判所が殺人と認定した人数が5人だったことは、ほかの乳児が死亡していなかったことを意味しない。
刑事裁判で合理的な疑いを超えて殺人を証明できた対象が、5人に限られたという意味である。
控訴審で懲役4年と2年に減刑
石川夫妻は一審判決を不服として控訴した。検察側も量刑などを不服として争った。1952年4月28日、東京高裁は一審判決を変更し、石川ミユキを懲役4年、石川猛を懲役2年とした。一審判決の半分となる刑期だった。
夫妻はさらに上告しましたが、1953年に最高裁が上告を棄却し、控訴審判決が確定したとされている。多数の乳児が死亡した疑いのある事件に対して刑が軽いという批判は、判決当時から強くあった。
なぜ判決は比較的軽かったのか
量刑が比較的軽くなった背景には、殺人と認定された被害者が5人に限られたことがある。多くの乳児はすでに火葬され、遺体を解剖して死因を確認できなかった。帳簿、死亡診断書、埋葬許可書の記載も一致せず、親の氏名や住所が不明な例もあった。
戦後の食糧難や医療不足によって乳児の死亡率が高かったことも、個々の死亡が意図的な養育放棄によるものかを判断する難しさにつながった。また、現在ほど児童虐待や養育放棄に関する捜査、法医学、記録保存の制度が整っていなかった。ただし、社会状況が厳しかったことは、乳児の養育費や配給品を受け取りながら、必要な食事を与えなかった行為を正当化するものではない。
乳児の親だけに責任を負わせることはできない
石川ミユキは裁判や取材で、乳児を引き取ろうとしなかった親にも責任があるという趣旨の主張をした。確かに、偽名を使って乳児を預け、その後に連絡を絶った親もった。一方、当時の女性は、未婚での出産、貧困、家族からの排除、失業、配偶者の不在など、現在以上に厳しい状況へ追い込まれることがあった。
人工妊娠中絶は厳しく制限され、出産後に親子を支援する公的制度も十分ではなかった。乳児を預けた親の行動を検証することと、養育を引き受けた寿産院の刑事責任は別の問題である。乳児は親の事情を選ぶことができず、どのような出生状況であっても食事、医療、安全を受ける権利がある。
児童福祉法と事件の関係
児童福祉法は、寿産院事件が発覚する約1カ月前の1947年12月12日に公布された。そのため、事件をきっかけに児童福祉法そのものが制定されたとする説明は正確ではない。一方、事件は、親が養育できない乳児を公的に保護する制度を早急に機能させる必要性を、社会へ強く認識させた。
児童福祉法に基づき、児童相談所、乳児院、里親制度などの整備が進められる。それまで助産婦や民間人が個人的に行っていた乳児の預かりや養子縁組についても、行政が関与する方向へ改められていった。
乳児を預かる施設への規制強化
事件後の1948年3月、助産婦の業務に関する広告規制が強化された。事情のある乳児を預かることや、秘密を守って相談に応じることを宣伝する広告などが制限される。同年4月には東京都で、乳児を預かって養育する施設を対象とした条例が整備された。
乳児を預かってから一定時間内に、子どもや親の情報を保健所へ届け出ることが求められる。複数の乳児を預かる施設には、設備や責任者などの条件を満たして許可を受けることが必要となった。毎月の健康診断など、行政が乳児の生存と健康状態を確認する仕組みも導入されていく。
養子縁組の仲介を児童相談所へ
事件当時、乳児を養子に迎えたい家庭と、育てられない親を結び付ける公的な窓口は十分に知られていなかった。その空白を利用し、民間の産院や仲介者が金銭を受け取って乳児を紹介する例があった。寿産院事件後、行政は児童相談所が乳児の状態や養親候補の家庭環境を調査し、里親委託や養子縁組を仲介する制度を整えていく。
子どもの引き渡しを当事者間の金銭取引だけで決めず、子どもの安全と利益を中心に判断する考え方が強まった。
人工妊娠中絶の制度との関係
事件が起きた当時、人工妊娠中絶は刑法の堕胎罪によって厳しく制限されていた。妊娠を継続できない事情があっても、安全な医療や公的支援を受けられず、出産後に乳児を手放す女性もった。1948年には優生保護法が制定され、一定の条件で人工妊娠中絶が認められるようになる。
寿産院事件は、望まない妊娠や生活困窮へ支援がないことの危険性を示した事件として、中絶制度や母子支援の議論とともに語られていた。ただし、優生保護法の制定を寿産院事件だけの直接的な結果と断定することはできない。
石川ミユキのその後
石川ミユキは刑事裁判の終了後も、自分は可能な範囲で乳児を養育しており、不当に重い責任を負わされたという趣旨の主張を続けたとされている。釈放後は行商などを経て、不動産関係の事業を行うようになった。後年の報道では、経済的に成功していたと伝えられている。
石川猛はミユキより先に死亡し、ミユキは1987年に90歳で死亡したとされている。一方、寿産院で死亡した乳児の多くは氏名や生年月日が明確に残されず、家族のもとへ遺骨が返されたかどうかも確認できない。
「鬼産婆」という呼称だけでは見えない問題
当時の新聞は石川ミユキを「鬼産婆」などと呼び、事件を個人の残虐性に集中して報じた。夫妻の行為が重大な犯罪であったことに疑いはない。しかし、事件を一人の異常な人物による犯行だけとして捉えると、乳児を公的に保護する制度が不足していた問題が見えにくくなる。
貧困、食糧不足、婚外子への差別、人工妊娠中絶の制限、養子縁組の不透明な仲介などが重なり、乳児が私的な施設へ流れ込んでいた。行政が乳児の所在や健康状態を継続的に確認する仕組みも、十分に機能していなかった。個人の刑事責任と、事件を可能にした社会制度の問題を、どちらも記録する必要がある。
名前を残せなかった乳児たち
寿産院事件の被害者は、生後間もない乳児が中心だった。親が偽名を使用したり、出生届が提出されていなかったりしたため、公的な記録に名前が残っていない子どももった。死亡後に火葬された乳児については、遺骨や埋葬場所を家族が確認できなかった例もある。
被害者数の大きさだけが注目されますが、一人ひとりが食事、保温、治療を受けられないまま命を失った子どもだった。氏名が分からないことや、殺人罪として立件されなかったことによって、その被害が存在しなかったことにはならない。
寿産院事件の主な時系列
- 1943年ごろ:東京都内で寿産院が運営を開始
- 1944年ごろ:親が育てられない乳児を多数預かるようになる
- 1944年から1948年:院内で多数の乳児が栄養失調、凍死、肺炎などにより死亡
- 1947年:新聞広告などを通じた乳児の預かりや養子あっせんを拡大
- 1948年1月12日午後7時30分ごろ:警察官が乳児の遺体を運ぶ葬儀業者を職務質問
- 同日:葬儀業者が寿産院から多数の乳児の遺体を運んでいたと供述
- 1月中旬:警察が寿産院を捜索し、衰弱した乳児や帳簿、配給品などを確認
- 1月15日:石川ミユキ、石川猛らを逮捕
- 事件後:警察が80人を超える乳児の死亡を疑い、記録や埋葬状況を捜査
- 1948年6月:東京地裁で石川夫妻らの公判が始まる
- 9月3日:検察がミユキに懲役15年、猛に懲役7年を求刑
- 10月11日:東京地裁が5人の殺人を認定し、ミユキに懲役8年、猛に懲役4年
- 同日:助手として起訴された女性には無罪判決
- 1952年4月28日:東京高裁がミユキを懲役4年、猛を懲役2年に減刑
- 1953年:最高裁が上告を棄却し、有罪判決が確定
- 事件後:乳児預かり施設の規制、乳児院、里親制度、児童相談所によるあっせんを整備
- 1987年:石川ミユキが死亡
- 現在:刑事手続は終了。正確な死亡者数や全被害者の身元は確定していない
現在の状況|刑事手続は終了、正確な被害者数は不明
石川ミユキと石川猛には、乳児5人に対する不作為の殺人罪などで有罪判決が確定した。ミユキは懲役4年、猛は懲役2年となり、両名に対する刑事手続はすでに終了している。一方、寿産院で死亡したと疑われる乳児の総数は確定していない。
警察が把握した死亡者数、行政の書類、施設の帳簿、所在不明となった乳児数が一致しないためである。裁判で殺人と認定された5人以外についても、多数の乳児が劣悪な環境で死亡したことが記録されている。現在の正確な状況は、夫妻の有罪は確定している一方、死亡した乳児全員の人数、身元、死因を確定できないまま残された事件である。
寿産院事件が残したもの
寿産院事件では、家庭で育てられない乳児を保護すると説明しながら、十分な食事や医療を与えず、多数の命が失われた。石川夫妻は親から養育費を受け取り、行政から配給品を得て、さらに乳児の引き取り希望者からも金銭を受け取っていた。その一方、引き取り手が見つからない乳児は衰弱し、死亡後も家族へ十分に説明されないまま火葬されたとみられている。
警察は多数の死亡を疑いましたが、被害者の身元や死因を証明できず、刑事裁判で殺人と認定されたのは5人にとどまった。事件後、乳児を預かる施設への届け出や監督、児童相談所による養子縁組の仲介、乳児院と里親制度の整備が進められる。現在も、予期しない妊娠、貧困、家庭内暴力、孤立などによって、出産や育児の支援を求められない人がう。
子どもの生命を守るためには、保護者を非難するだけでなく、妊娠中から出産後まで安全に相談できる制度と、公的機関による継続的な確認が必要である。寿産院事件は、乳児を利益の対象とした犯罪であると同時に、社会から見えない場所へ置かれた子どもの生命を、行政がどのように守るかを問い続ける事件である。
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