1936年5月20日夕方、東京・品川の旅館で阿部定(31)が逮捕された。2日前、東京市荒川区尾久の待合「まさき」で石田吉蔵(42)が死亡しており、阿部はその後、衣服を替えながら都内を移動していた。身柄を確保された阿部は、石田を絞殺し、遺体を損壊した経緯について供述を始めた。
阿部定事件は、犯行後の行為が当時の新聞で過度に強調され、後世には「猟奇」「純愛」といった強い言葉で語られてきた。しかし、刑事事件として重要なのは、石田の死亡、阿部の供述、精神鑑定を踏まえた責任能力の評価、そして検察の懲役10年求刑に対して裁判所が懲役6年を選んだ理由である。
| 事件発生 | 1936年5月18日 |
|---|---|
| 場所 | 東京市荒川区尾久の待合「まさき」 |
| 被害者 | 石田吉蔵(42) |
| 被告人 | 阿部定(31) |
| 逮捕 | 1936年5月20日、品川の旅館 |
| 罪名 | 殺人・死体損壊 |
| 求刑 | 懲役10年 |
| 判決 | 1936年12月21日、懲役6年(未決勾留120日算入) |
| 確定 | 阿部が上訴権を放棄 |
| 出所 | 1940年の恩赦で減刑、1941年5月出所 |
5月18日午後、待合の従業員が石田の死亡を発見
阿部が「まさき」を出た後も石田が起きてこないことを不審に思った従業員が、18日午後2時50分ごろ客室を確認し、石田が死亡しているのを発見した。当時報道を再検証した資料では、現場には阿部と石田の名を組み合わせた文字などが残されていたとされる。
警察は尾久署に捜査本部を置き、同日夜までに死亡した男性を料理店「吉田屋」の石田吉蔵、現場を離れた女性を同店の元女中・阿部定とみて行方を追った。事件発覚から身元特定、手配までが短時間で進んだため、翌日の新聞報道はすでに阿部の人物像や交友関係へ広がっていた。
戒厳令下の東京で、事件は「異常な男女関係」として消費された
事件が起きた1936年は、2月26日に二・二六事件が発生した年だった。翌27日から東京市に敷かれた戒厳令は7月まで続いており、そのさなかの5月19日、各紙は尾久で起きた殺人を社会面の大きな記事として報じた。
当時の見出しは、殺人そのもの以上に阿部の性や遺体損壊を前面に出していた。現代の記事でこの語り口をそのまま踏襲すると、事件の法的な骨格や裁判で検討された事情が埋もれてしまう。阿部定事件は「特異な犯行後行動」だけでなく、一人の男性が殺害された事件として整理する必要がある。
石田吉蔵42歳と阿部定31歳――親密な関係の先に起きた殺害
石田は妻子のある男性で、阿部とは事件前から親密な関係にあった。1936年5月18日、二人が滞在していた待合「まさき」で石田は死亡した。阿部は石田の首を絞めて死亡させた後、遺体の一部を切除するなどして損壊し、現場を離れた。
この部分は事件の特徴として無視できない一方、損壊の細部を繰り返すことに事件理解上の意味はない。裁判で問われた中心は殺人と死体損壊であり、阿部が当時どのような精神状態にあったのかも量刑判断の重要な要素になった。
犯行後、阿部は都内を移動しながら衣服を替えた
阿部は18日朝に「まさき」を離れた後、新宿を経て上野方面へ移動した。当時の新聞記事をたどった文春オンラインの検証では、知人の古着店を訪ね、着ていた着物を売って別の衣服に着替えるなど、外見を変えながら移動していたことが確認できる。
警察には阿部の足取りに関する情報が次々と集まり、捜索が続いた。事件の発覚直後から新聞報道が拡大していたため、阿部の動向は社会的にも強い関心を集めていたが、逮捕までの期間は事件発生からわずか2日だった。
5月20日夕方、品川の旅館で逮捕
1936年5月20日夕方、阿部は品川の旅館で逮捕された。逮捕時31歳。報道資料によれば、阿部は身柄を確保された後、石田を殺害した経緯や自らの動機について供述を始めている。
ここで注意が必要なのは、逮捕後の供述と、裁判所が認定した事実を同じものとして扱わないことである。阿部が何を語ったかは事件理解の重要な資料だが、動機については本人の説明として位置付けなければならない。
捜査中には無関係の人物まで「事件の男」として報じられた
捜査の過程では、阿部と以前から面識のあった中京商業学校長・大宮五郎も参考人として取り調べを受けた。当時の一部紙面は三角関係を事件原因のように書いたが、大宮が事件そのものに関与した事実は確認されず、21日に釈放されている。
この経過は、阿部定事件を扱う際の資料選別の難しさを示す。報道量が非常に多かった一方、捜査途中の推測や人物評まで大きく掲載されたため、当時記事に載った説明をそのまま確定事実として再利用することはできない。
「愛するがゆえ」は阿部自身が語った動機だった
東京朝日の当時報道では、阿部は、妻のいる石田と自由に会えないことへの苦痛から、石田を殺し自分も死ぬことを考えた趣旨を供述したとされる。後世に「愛するがゆえの殺人」という印象が定着した背景には、こうした供述と、それを大きく扱った新聞報道がある。
ただし、本人の供述をそのまま事件全体の「真相」と呼ぶことはできない。とりわけ阿部定事件では、当時の新聞が性愛や人物像を強く演出したため、報道上の物語と刑事裁判で確認された事実を分けて読む必要がある。
6月13日、殺人・死体損壊で起訴され予審へ
阿部は1936年6月13日、殺人と死体損壊の罪で起訴され、当時の旧刑事訴訟法に基づく予審に付された。予審は、被告人を正式な公判に付すべきかを裁判官が調べる制度で、現在の刑事手続には存在しない。
予審では複数回の尋問が行われ、阿部は生い立ちから石田との関係、犯行までを詳しく供述したとされる。後に「阿部定事件」の物語化を支えた資料の一つがこの予審調書だったが、記事で扱う際には、そこに記録された発言を阿部本人の供述として区別する必要がある。
公判で検察は懲役10年を求刑した
裁判では阿部の殺人・死体損壊が審理され、検察は懲役10年を求刑した。現在の感覚では、殺人罪を含む事件に対する求刑・判決として軽く見える可能性があるが、当時の法制度と、裁判所が認定した責任能力の程度を踏まえなければ評価できない。
判決日は1936年12月21日。裁判所は阿部に懲役6年を言い渡し、未決勾留日数120日を刑期に算入した。求刑10年から大きく下回った点は、当時から注目を集めた。
懲役6年の背景にあった「心神耗弱」の認定
判決が軽減された主な理由として、犯行時の阿部について心神耗弱が認められたことが挙げられている。文春オンラインが参照した当時資料では、精神鑑定の結果を裁判所が採用したことが説明されている。
心神耗弱は、責任能力が完全に失われた心神喪失とは異なる。行為の是非を判断し、それに従って行動する能力が著しく低下していたと評価される状態であり、当時の刑法上、刑の減軽に関わる。阿部は無罪になったのではなく、殺人・死体損壊について有罪とされ、そのうえで責任能力の程度が刑に反映された。
判決直後に上訴権を放棄し、懲役6年が確定
裁判長が懲役6年を言い渡し、控訴できることを告げると、阿部はその場で上訴権を放棄する意思を示した。裁判長が改めて意思を確認した後も変わらず、阿部は控訴しなかった。
したがって、この事件は控訴審や上告審まで争われた事件ではない。一審判決後、阿部自身の上訴権放棄によって懲役6年の判決が確定した点は、裁判経過を整理するうえで重要である。
1940年の恩赦で減刑、1941年5月に出所
阿部は判決から5日後の1936年12月26日、栃木女囚刑務所に服役したとされる。その後、1940年の皇紀2600年に伴う恩赦で刑が減軽され、1941年5月に出所した。
「懲役6年」と「実際に服役した期間」が一致しないのは、この恩赦による減刑があったためである。事件記事で判決だけを記して終えると、刑の執行経過を誤解させるため、出所までを一続きの司法経過として押さえておきたい。
後世の「伝説」と、刑事事件として確認できる事実を分ける
阿部定事件は戦前から戦後にかけて多くの出版物や映画、評論の題材となり、実際の裁判記録とは別の人物像が積み重なった。出所後の阿部自身も、自分を題材にした出版物をめぐって名誉毀損を訴えるなど、事件の語られ方と向き合うことになった。
刑事事件として確実に押さえられるのは、1936年5月18日に石田吉蔵が殺害され遺体を損壊されたこと、阿部が20日に逮捕されたこと、検察が懲役10年を求刑し、裁判所が心神耗弱などを踏まえて懲役6年を言い渡したこと、そして阿部が上訴権を放棄したことである。後世の「純愛」「猟奇」という評価は、それらの事実とは別の層に置かなければならない。
判決公判そのものも大きな見世物になっていた。文春オンラインが引用する東京朝日では、傍聴希望者が前夜から雪の中で待ち、法廷では多数の報道関係者が阿部の姿を追ったとされる。裁判長は判決後、出所後に事件を利用しようとする者に注意するよう阿部へ言葉をかけた。刑事裁判の場まで、すでに事件の商品化を意識せざるを得ない状況だった。
その後、予審調書や手記、写真が繰り返し出版・引用され、阿部本人の供述と出版社側の脚色の境界はさらに見えにくくなった。戦後には阿部が、自身と石田を題材にした出版物の内容を問題として著者・出版社を訴えたことも報じられている。事件の「有名な逸話」を採用するときほど、一次的な裁判資料や当時資料に立ち戻る必要がある。
なお、当時報道では阿部が事件後に自殺を考え、遺書を用意していたとの供述も伝えられた。これも本人の説明としては重要だが、実際には阿部は自死せず、5月20日に逮捕されて司法手続へ移った。『石田を殺して自分も死ぬつもりだった』という説明は、実行された客観的事実と区別して読むべきである。
この事件では、発覚直後の紙面が極端に大きかったため、後世の記事も「当時どう報じられたか」に引っ張られやすい。だが、報道の熱量と事実の確度は別問題である。逮捕前の臆測、阿部の供述、精神鑑定を踏まえた裁判所の判断を階層ごとに分けることで、初めて事件の輪郭が見えてくる。
参考資料・出典
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #1」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #1(2ページ目)」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #1(3ページ目)」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #2」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #2(4ページ目)」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #3」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #3(4ページ目)」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #5」
- 文春オンライン「阿部定事件から90年 #5(2ページ目)」
- 毎日新聞フォトバンク・昭和史年表
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