阿部定事件|石田吉蔵を絞殺した裁判事実と、「純愛」へ変えられた殺人

公開日 2026年2月4日
最終更新 2026年7月31日

阿部定事件は、1936年5月18日未明、東京市荒川区尾久の待合で、当時31歳の阿部定が愛人関係にあった石田吉蔵を絞殺し、遺体の一部を切り取って持ち去った事件である。定は2日後、品川の旅館で逮捕された。

東京刑事地方裁判所は同年12月21日、殺人と死体損壊の罪で懲役6年を言い渡した。定は控訴せず、判決は確定。1940年の恩赦で刑が短縮され、1941年5月に出所した。

事件は遺体損壊の特異性と、定が取調べで関係を詳しく語ったことから全国的な好奇の対象となった。後世には「純愛」「愛の極致」として描かれる一方、石田が生命を奪われた殺人事件であることが背景へ退くことも少なくない。1970年代初め以降の定の消息と死亡時期は、信頼できる公開資料では確定していない。

POINT
この記事でわかること
  • 料理店で出会った阿部定と石田吉蔵の関係
  • 尾久の待合で絞殺に至った経過
  • 遺体損壊ばかりが注目された報道の問題
  • 求刑10年に対して懲役6年となった裁判
  • 恩赦による出所と、その後の消息を断定できない理由
事件名阿部定事件(お定事件)
発生日1936年5月18日未明
発生場所東京市荒川区尾久の待合
被害者石田吉蔵
加害者阿部定(当時31歳)
逮捕1936年5月20日、品川の旅館
罪名殺人、死体損壊
求刑懲役10年
判決1936年12月21日、懲役6年
上訴控訴せず確定
出所恩赦による減刑を経て1941年5月
現在の状況刑は終了。1970年代初め以降の消息・死亡時期は未確定

料理店「吉田屋」で、店主の石田吉蔵と知り合った

阿部定は1905年、東京に生まれた。事件までには芸妓、娼妓、女給、仲居など複数の仕事を経験し、各地を移動していた。後世の呼称である「毒婦」「伝説の娼婦」は、事件報道と創作によって形づくられた面が強い。

1936年、定は東京・中野の料理店「吉田屋」で働き始め、店主の石田吉蔵と関係を持った。石田には妻がいた。二人は店を離れて旅館や待合で過ごすようになり、5月中旬には尾久の待合に滞在した。

作品では二人の関係が運命的な恋愛として描かれることがある。しかし、確認できる出発点は既婚の店主と従業員の関係であり、石田の家族を含む現実の人間関係が存在した。

首を絞める行為が、二人の間で繰り返されていた

事件調書や公判を基にした資料では、二人は性的行為の中で首を絞める行為を繰り返していたとされる。定は石田への独占欲を強め、離れることを恐れる言葉を述べていた。

この経過は、殺害が見知らぬ相手への突然の攻撃ではなかったことを示す。一方、「愛しすぎたため仕方なく死なせた」という説明にはならない。危険を理解しながら相手の生命を支配する行為へ進んだ責任は、定にある。

石田がどこまで危険を認識し、個々の行為へ同意していたかは、死亡した本人から確認できない。関係が続いていたことを、致死的な絞首への同意とみなすことはできない。

5月18日未明、眠る石田の首を絞め続けた

1936年5月18日未明、定は尾久の待合で石田の首へ腰紐などを掛け、絞め続けた。石田は窒息により死亡した。

定はその後、刃物で遺体の一部を切り取り、持ち去った。現場や遺体へ文字を残した行為も確認されている。

事件の理解に必要なのは、遺体の状態を細部まで再現することではない。石田は生きた人間として殺害され、その後さらに身体を損なわれた。遺体損壊の特異性だけを娯楽的に描写すると、被害者の生命が見えなくなる。

遺体発見後、新聞は「お定」を全国的な見世物にした

石田の遺体が発見されると、警察は定を指名手配した。新聞は連日のように事件を報じ、定の経歴、服装、逃走先を大きく取り上げた。

当時の報道には、殺人事件の捜査情報を超え、女性の性行動を異常視し、読者の好奇心をあおる表現が多かった。定は「妖婦」「毒婦」などの言葉で人格全体を規定された。

女性による性と暴力の事件だったことが、男性加害者の殺人とは異なる消費のされ方につながった。石田の死亡よりも、切り取られた身体と定の性的な供述が記事の中心になった。

5月20日、品川の旅館で逮捕された

定は事件後、東京市内を移動し、偽名を用いて品川の旅館へ宿泊した。5月20日、警察が客室を訪れ、定を逮捕した。

逮捕時、定は石田の遺体から切り取った物を所持していた。警察の取調べに対し、犯行と二人の関係を詳しく供述した。

供述の率直さは後の判決でも考慮されたとされるが、詳細に語ったことは犯行を軽くする理由そのものではない。供述は殺害と死体損壊を裏付ける証拠にもなった。

精神状態の検討と、責任能力をめぐる位置づけ

定の言動の特異さから、精神状態も調べられた。資料によって表現に違いがあり、判決が軽度の精神的偏りをどの程度認定したかについて、後世の紹介は一致していない。

確実なのは、定が心神喪失として無罪になったのではなく、殺人と死体損壊の刑事責任を認められたことである。精神鑑定や性格評価を、現在の診断名へ安易に置き換えることはできない。

1930年代の精神医学・性に関する価値観は現在と異なる。裁判資料の用語を現代人の人格診断として使うことにも注意が必要である。

1936年12月、求刑10年に対して懲役6年

公判では定が起訴事実を認め、殺意、犯行後の行動、反省、経歴などが審理された。検察は懲役10年を求刑した。

東京刑事地方裁判所は1936年12月21日、懲役6年を言い渡した。判決は人命を奪った重大性を指摘する一方、定が不利益な事実も含めて供述したことや、事件へ至る事情などを考慮したと伝えられる。

現在の殺人事件の量刑感覚と比較し、単純に「6年は軽すぎる」と結論づけるだけでは、当時の刑法、起訴罪名、量刑実務を無視する。とはいえ、被害者が一人死亡した事実は、短い刑期の印象によって小さくならない。

定は控訴せず、刑は確定した

定は判決後、控訴しなかった。懲役6年が確定し、同年12月に女子刑務所で服役を始めた。

1940年、皇紀2600年に伴う恩赦で刑が短縮され、1941年5月に出所した。恩赦は無罪判決ではなく、確定した刑の執行を減らす行政上の措置である。

そのため、出所が早まったことを「事件が再評価され無罪になった」と説明するのは誤りである。殺人・死体損壊の有罪判決は覆っていない。

出所後も、定は本人の意思とは別に商品化された

出所後、定は別名を使って生活し、仕事や結婚生活を経験したとされる。事件を題材にした出版、舞台、映画が相次ぎ、本人も取材や興行の場へ姿を見せた時期があった。

定が自ら手記や語りを残した面はある一方、社会は一人の女性を「阿部定」という記号として消費し続けた。作品ごとに事実と創作が混ざり、石田との関係は純愛、倒錯、女性解放など異なる物語へ変えられた。

創作作品の価値と、事件記事の事実確認は別である。映画の台詞や演出を、本人の実際の供述として引用してはならない。

1970年代以降の消息は、確定情報として書けない

定は戦後しばらく公の場へ現れたが、1970年代初め以降、信頼できる記録から姿を消した。死亡した年、場所、最期の生活について複数の説がある。

高齢まで存命だったとする話、寺院で死亡したとする話などが流通するが、公的な死亡記録や複数の信頼できる資料で一致していない。

2026年現在、事件の刑事手続は1940年代に終了している。現在状況として確実に言えるのは、懲役6年判決が確定し、恩赦による減刑を経て出所したこと、後年の死亡時期は確認不能という範囲である。

「愛の事件」という呼び方が隠すもの

阿部定事件は、愛情と独占欲の極端な形として語られることが多い。だが、相手を自分だけのものにするため生命を奪う行為は、愛情の証明ではない。

定の人生を女性差別的な「毒婦」の一語で終わらせることも適切ではない。生育歴や当時の女性の働き方を確認することと、殺害責任を曖昧にすることは両立しない。

事件記事では、猟奇的な細部を繰り返すより、石田が殺害された経過、裁判が何を認定したか、定が刑を終えた後まで社会が事件を商品化した構造を分けて記録する必要がある。

事件の語られ方と、被害者の家族が置かれた位置

石田には妻と家庭があった。事件報道が定の情念だけを中心にすると、石田の死によって生活を変えられた家族の存在はほとんど見えなくなる。

定と石田の関係を「二人だけの世界」と表現すること自体、犯行後に定が語った物語を受け入れることになる。現実には、待合の従業員、家族、警察、裁判所など多くの人が事件の影響を受けた。

被害者中心で記録するとは、石田の行動を理想化することではない。既婚者として不倫関係を持った事情と、殺害・遺体損壊の被害を受けたことは、別の事実として扱う必要がある。

事件発生90年後も、史実と作品を分ける必要がある

2026年で事件から90年となり、映画、文学、評論で作られた阿部定像は、実際の事件記録より広く知られている。

作品は作者の解釈によって、定を愛の殉教者、抑圧された女性、倒錯した犯罪者などへ描き分ける。それらは文化史として検討できるが、刑事事件の記事の根拠にはならない。

確定した事実は、定が石田を絞殺し遺体を損壊したこと、懲役6年判決を受け、恩赦後に出所したことまでである。消息不明後の人生を創作で埋めないことが、事件と人物の双方を過度に神話化しないために必要となる。

当時の新聞が作った刺激的な見出しを、そのまま現代の記事タイトルや小見出しへ再利用すると、90年前の偏見も引き継ぐことになる。定の行動を正当化せず、同時に女性の性だけを異常視しない書き方が必要である。石田の死亡、裁判所の判断、出所後の記録という異なる段階を分ければ、猟奇的な細部に頼らなくても事件の全体像を示すことができる。

事件名だけが独り歩きすると、石田が命を奪われた事実と、定に対する裁判所の判断、後世の創作が同じ物語へ混ざってしまう。殺人の責任を曖昧にせず、同時に女性の性を異常視する見世物へ戻さないためにも、史実と作品を分けて記録する必要がある。

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