1999年12月21日、京都市伏見区の京都市立日野小学校で、小学2年生の中村俊希君(当時7歳)が校庭で殺害された。事件現場には「てるくはのる」という語を含む文書が残され、この言葉だけが独り歩きするほど強い関心を集めた。
捜査は翌2000年2月、21歳の男性へ達した。だが警察が任意同行を求めている最中、男性は捜査員を振り切って逃走し、団地から転落して死亡した。その後、事件は不起訴となり、殺人の事実関係を公開の刑事裁判で審理する機会は失われた。
| 発生日 | 1999年12月21日 |
|---|---|
| 場所 | 京都市伏見区・京都市立日野小学校 |
| 被害者 | 中村俊希君(当時7歳、小学2年生) |
| 捜査対象 | 当時21歳の男性 |
| 2000年2月5日 | 任意同行を求められる過程で男性が死亡 |
| 刑事手続 | 被疑者死亡により不起訴 |
| 刑事裁判 | 開かれていない |
放課後の小学校で、7歳の中村俊希君が殺害された
国立国会図書館が所蔵する両親の手記『聞け、“てるくはのる”よ』は、事件を「京都・伏見の日野小学校で小学校二年生の中村俊希君が殺害された」事件として記録している。学校は子どもが日常的に過ごす場所であり、その校庭で児童が殺害されたことは、事件直後から学校の安全管理を問う契機になった。
当時の報道や手記では、現場に凶器や複数の遺留品、手書き文書が残されていたとされる。なかでも「私を識別する記号」として記された「てるくはのる」という語が注目されたが、その語の意味を裁判所が認定した事実はない。
「てるくはのる」の解釈より重要なのは、何が司法で確定していないか
事件後、「てるくはのる」をめぐって多くの解釈や推測が広がった。しかし、被疑者とされた男性は刑事裁判を受けておらず、文書の作成目的や言葉の意味、犯行動機について裁判所が認定した結論は存在しない。
残された文書を事件理解の材料として扱うことはできるが、後から提唱された暗号説や心理分析を確定事実として置くことはできない。この事件では、捜査機関の評価と司法上の確定を分ける必要がある。
捜査は21歳男性へ進み、警察は任意同行を求めた
捜査は遺留品や関係資料を手掛かりに進み、京都府警は当時21歳の男性を捜査対象とした。2000年2月5日、捜査員は男性へ任意同行を求め、事件について事情を聴くため説得を続けた。
任意同行は逮捕とは異なり、本人の同意を前提に警察署などへ同行を求める捜査活動である。この段階では、男性は刑事裁判の被告人ではなく、警察が関与を疑い捜査していた被疑者だった。
2月5日、男性は捜査員を振り切って逃走し死亡した
2001年の参議院法務委員会では、この事件について「被疑者が警察官の任意同行を振り切って自殺し、不起訴になった事案」として取り上げられている。京都府警側も当時の議会答弁で、説得中の男性が突然走り去り、団地から飛び降りた経過を説明した。
男性の死亡により、事情聴取で本人の説明を得ることも、起訴後に弁護側が証拠を争うこともできなくなった。捜査側が積み上げた資料を、公開法廷で証人尋問や反対尋問を通じて検証する道も閉ざされた。
不起訴は「無罪判決」でも「有罪確定」でもない
男性の死亡後、事件は不起訴となった。不起訴とは検察官が公訴を提起しない処分であり、裁判所が無罪を言い渡したこととは異なる。同時に、警察が男性を被疑者として捜査したことも、有罪判決の代わりにはならない。
この事件を記録する場合、「警察は男性の関与を疑って捜査し、本人死亡後に不起訴となった」とするのが法的段階に沿った表現になる。「犯人として有罪が確定した」と書く根拠となる刑事判決は存在しない。
刑事裁判がなかったため、遺族には「何が起きたのか」を知る問題が残った
被疑者死亡で不起訴となった事件では、公判記録が作られず、捜査資料の多くも原則として公開されない。2001年の参議院法務委員会では、日野小事件の遺族が事件の経過を知るため不起訴記録の開示を求めていたことが議論された。
法務大臣は、不起訴記録にはプライバシーや裏付けのない供述が含まれるため全面開示は適当でないとしつつ、日野小事件では一部資料が示されたと答弁した。事件は、被疑者死亡後の犯罪被害者にどこまで捜査情報を開示するかという問題も残した。
中村俊希君の両親は、事件の記録を手記として残した
中村俊希君の両親、中村聖志さんと唯子さんは2000年7月、『聞け、“てるくはのる”よ』を刊行した。国立国会図書館の書誌は、愛児を失った両親が無念の思いをつづった「告発と鎮魂の手記」と紹介している。
刑事裁判が開かれなかった事件では、遺族が知り得た捜査経過や事件後の体験そのものが重要な記録になる。一方、手記に記された評価や遺族の認識と、裁判所の事実認定は同じものではない。
事件の直後、文部省は学校安全管理に関する通知を出した
文部科学省の学校施設防犯資料は、1999年度の「学校への侵入事件」として京都市立日野小学校事件を明記し、その直後の2000年1月7日に「幼児児童生徒の安全確保及び学校の安全管理について」の通知が出された経過を整理している。
同省は後年、学校施設への侵入者による児童への身体犯罪として日野小事件、2001年の大阪教育大学附属池田小事件などを挙げ、校門・校舎への侵入対策、来校者確認、教職員による見守り、地域との連携などを学校安全の課題として位置づけた。
京都市でも事件後の学校安全活動が長く続いた
京都市教育委員会の学校安全事業報告書では、1999年の日野小学校事件を契機に地域の危機意識が高まり、学校と地域が子どもの安全を守る活動へ取り組んだ経過が振り返られている。
事件後の対策は、門扉や設備だけの問題ではなかった。学校内から校庭を見通せる環境、来校者への対応、地域住民の見守りなど、日常の中で不審者侵入を早く察知する仕組みが重視されるようになった。
この事件の法的な終点は「被疑者死亡・不起訴」
日野小事件では、中村俊希君が学校で殺害されたこと、警察が21歳男性を被疑者として捜査したこと、男性が任意同行の過程で死亡し不起訴となったことまでは公的記録で確認できる。
一方、犯行動機、現場に残された文書の意味、個々の証拠がどの程度犯行を裏付けるかについて、刑事裁判による確定判断はない。事件を理解するうえで最も重要なのは、その未確定部分を推測で埋めないことにある。
参考資料・出典
・国会会議録検索システム「第151回国会 参議院法務委員会 第16号」2001年6月26日
・文部科学省「学校施設の防犯対策に係る基本的な考え方」
・文部科学省「学校施設における犯罪の動向」
・京都市教育委員会「地域ぐるみの学校安全全体整備推進事業 報告書」
・国立国会図書館『聞け、“てるくはのる”よ』書誌情報
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