1949年8月6日午後11時ごろ、青森県弘前市で、弘前大学医学部教授・松永藤雄の妻(当時30歳)が自宅で就寝中、鋭利な刃物で頸部を刺され死亡した。近所に住む那須隆さん(当時25歳)が逮捕・起訴されたが、一審は殺人について無罪。ところが仙台高裁は一審を覆して懲役15年とし、1953年に有罪が確定した。
那須さんは服役後も無実を訴え続けた。1971年、滝谷福松が自分こそ犯人だと名乗り出る。最初の再審請求は棄却されたが、異議審で再審開始が認められ、1977年2月15日、仙台高裁は那須さんに無罪を言い渡した。再審判決は、那須さんを有罪にした白シャツの血痕鑑定へ強い疑問を示し、「本件の真犯人は滝谷である」とまで断定した。
| 発生 | 1949年8月6日夜 |
|---|---|
| 場所 | 青森県弘前市 |
| 被害者 | 弘前大学医学部教授・松永藤雄の妻(30歳) |
| 被告人となった人物 | 那須隆さん(当時25歳) |
| 一審 | 1951年1月12日・殺人について無罪 |
| 控訴審 | 1952年5月31日・懲役15年 |
| 有罪確定 | 1953年3月3日 |
| 仮出獄 | 1963年1月 |
| 再審請求 | 1971年7月13日 |
| 再審開始 | 1976年7月13日 |
| 再審無罪 | 1977年2月15日 |
| 無罪確定 | 1977年3月2日 |
就寝中、頸部を一突きされて死亡
事件が起きたのは1949年8月6日午後11時ごろ。被害女性は自宅の離れ座敷で、母親らと就寝していた。侵入した人物に鋭利な刃物で頸部を刺され、頸動脈などを切断されて死亡した。
現場にいた母親は犯行直後、逃げていく若い男を目撃した。再審関係の判決資料では、白い半袖シャツと半ズボン姿、20歳を過ぎたくらいの男だったとの供述が記録されている。
現場から決定的な遺留品は見つからなかった
日本大百科全書は、犯人の遺留品や犯人のものとみられる指紋は現場から見つからなかったと整理している。一方、逃走経路とみられる路上には血痕が残っていた。
殺害現場から直接「この人物しかあり得ない」と示す証拠があった事件ではない。捜査は周辺住民や前歴者の確認へ広がり、その中で近所に住んでいた那須さんが対象となった。
8月22日、那須隆さんを逮捕
那須さんは事件から16日後の8月22日、殺人事件の被疑者として逮捕された。那須宅の捜索では拳銃などが押収され、別件の銃砲等所持禁止令違反でも起訴された。
殺人事件で最も重視された物証は、那須さんの白い海軍用開襟シャツに付いていた斑点だった。那須さん自身も被害者もABO式ではB型だったため、より細かな血液型鑑定が行われた。
白シャツの血痕が、有罪認定の中心へ
捜査資料では、白シャツの汚斑は人血でB型と鑑定され、さらに当時用いられていたQ式血液型で、被害女性と同じQ型との結果が示された。那須さん自身はq型とされた。
この鑑定によって、シャツの血痕は犯行時に被害者から付着した返り血だと検察側は考えた。直接目撃証言や凶器がない事件で、衣服上の血液型が那須さんと殺害を結び付ける中心証拠になった。
しかし、白シャツは事件当日に押収されたものではない。那須さんが逮捕された8月22日、事件から16日後に自宅から押収された。しかも那須さんはその日まで作業着としてシャツを使用していたと民事判決資料に記録されている。
血痕が被害者と同型だとしても、「いつ付着したのか」が確認できなければ犯行時の返り血とは限らない。後の再審では、まさにこの時間的なつながりと鑑定資料の管理経過が重大な問題になった。
一審は殺人について無罪
青森地裁弘前支部は1951年1月12日、殺人について那須さんを無罪とした。別件の銃砲等所持禁止令違反については罰金刑を科したが、殺害犯との認定には至らなかった。
那須さんはこの時いったん釈放された。しかし検察官が控訴し、事件は仙台高裁で再び審理されることになった。
1952年、仙台高裁が一審を破棄して懲役15年
1952年5月31日、仙台高裁は一審の殺人無罪を覆し、那須さんに懲役15年を言い渡した。控訴審は白シャツの血痕鑑定などを有罪方向に評価し、那須さんの性格や過去の言動も判決理由に取り込んだ。
再審開始決定では、後にこの旧控訴審判決の証拠評価そのものが詳細に再検討される。性格傾向や過去の発言が、実際の殺害行為を示す証拠としてどこまで意味を持つかも問題となった。
旧控訴審は、那須さんの過去の言動を犯行動機や人物像と結び付けていた。しかし、特異な発言や性格傾向があったとしても、1949年8月6日夜に被害女性を刺したことを直接証明するものではない。
再審では、人物評価よりも、現場に残った血痕、シャツ鑑定、目撃状況、滝谷の供述といった個別証拠が改めて検討された。有罪判決の物語に証拠を合わせるのではなく、一つ一つの証拠に合理的な疑いがないかが問い直された。
那須さんは最高裁へ上告したが、1953年2月19日に上告棄却判決が出され、同年3月3日に懲役15年の有罪判決が確定した。
「1953年2月19日に確定」とする記載もあるが、判決資料上は上告棄却が2月19日、確定が3月3日と区別されている。那須さんは有罪判決後、刑の執行を受け続けた。
那須さんは1963年1月、刑期の途中で仮出獄した。事件発生からすでに13年以上が過ぎていた。
刑務所を出たことで有罪判決が消えたわけではない。殺人犯としての前科は残ったままで、那須さんは自らの無罪を司法手続で取り戻すため、新しい証拠を探し続けた。
1971年、滝谷福松が「自分が犯人」と告白
1971年5月ごろ、那須さん側は滝谷福松が事件の真犯人を名乗り出たことを知った。滝谷は服役中、同房者に弘前事件の犯人は自分だと話し、その後弁護士や報道関係者にも具体的な犯行状況を告白した。
滝谷の供述は、単に「自分がやった」と名乗っただけではなかった。侵入経路、被害者を刺したときの位置関係、逃走方向、路上に血が滴った経過など、客観的証拠と符合する細部を含んでいた。
最初の再審請求は1974年に棄却
那須さんは1971年7月13日、仙台高裁へ再審を請求した。滝谷の告白と従来証拠の問題を基に、有罪判決を見直すよう求めた。
しかし1974年12月13日、仙台高裁の別の合議体は再審請求を棄却した。滝谷の供述について、真犯人でなければ語れないほど決定的な内容とはいえないと評価した。那須さん側は異議を申し立てた。
1976年、異議審が再審開始を決定
1976年7月13日、仙台高裁は先の棄却決定を取り消し、再審開始を認めた。滝谷の供述と客観的事実との符合だけでなく、那須さんの有罪を支えた白シャツ血痕の鑑定経過も改めて検討した。
再審開始決定は、有罪証拠を一つずつ見直した結果、「有罪を認定する方が極めて疑問」と評価できるものが多いと指摘した。新証拠だけを孤立して見るのではなく、旧証拠と合わせて合理的な疑いが生じるかを判断した。
白シャツの血痕は、いつ付着したのか
再審で大きな問題となったのは、白シャツに付いていた血痕の色調と鑑定経過だった。押収直後に見た法医学者は、路上の血痕とは色が明らかに違い、古い汚斑のように見えたと証言していた。
ところが後の鑑定段階では、被害者血液に近い性質を示す赤褐色の血痕として扱われた。再審判決は、押収時にはそもそも血痕が付着していなかった可能性まで検討し、従来鑑定の信用性へ強い疑問を示した。
民事判決資料によると、シャツは複数の鑑定機関・鑑定人の間を移動し、検査のたびに一部が採取された。初期に汚斑を見た法医学者の色調認識と、後に提出された鑑定時の色調が一致しない点が問題になった。
鑑定手法の名称や専門家の肩書が高度であっても、試料そのものが同じ状態で保全されていたかが不明なら結論の信頼性は下がる。弘前事件は、法科学で最も基本的な試料管理の重要性を示す事例になった。
「血痕が後から付いた可能性」を再審判決が指摘
1977年の再審判決は、シャツの血痕について、押収当時にはもともと付着していなかったのではないかとの推察が可能だと述べた。
これは、那須さんのシャツに被害者の血が付いていたという有罪判決の中心的な前提を崩す判断だった。科学鑑定という形式を取っていても、試料の保管経過や付着時期に疑問があれば、鑑定結果の証拠価値そのものが失われる。
滝谷の告白は、客観的事実と細部まで一致
再審判決は、滝谷の供述を事件記録と照合した。被害者宅への侵入、寝室での位置関係、刺した際の状況、逃走時に母親の声を聞いたこと、路上で一度方向を変えて逃げたことなど、多くの点が客観証拠と一致した。
一部に記憶違いとみられる差はあったが、裁判所は事件から20年以上を経た供述として不自然ではないと判断した。作り話でここまで複数の資料と一致させるのは困難だとして、供述の信用性を高く評価した。
1977年2月15日、再審で無罪
仙台高裁は1977年2月15日、殺人について一審の無罪判決に対する検察官控訴を棄却した。結果として、那須さんの殺人無罪が復活した。
判決は「一切の証拠を検討しても本件が被告人の犯行であることを認めるに足る証拠は何ひとつ存在しない」と判断し、さらに滝谷を真犯人と断定した。検察側は上訴せず、3月2日に無罪が確定した。
再審で単に「疑わしいから無罪」としただけではなく、滝谷の供述を客観証拠と照合し、真犯人まで断定した点は特徴的である。通常の無罪判決では、別人の犯行まで積極的に認定する必要はない。
それでも仙台高裁が踏み込んだのは、滝谷の説明が現場状況や逃走経路と細部で一致し、那須さんの有罪証拠が崩れていたためだった。
滝谷が名乗り出た1971年には、1949年の殺人について当時の公訴時効がすでに完成していた。このため、再審判決が真犯人と断定しても、滝谷を改めて殺人罪で起訴することはできなかった。
那須さんの無罪回復と、真犯人とされた人物への処罰は別の問題だった。誤った有罪を取り消す再審は実現した一方、殺害事件そのものについて新たな刑事裁判を開くことはできなかった。
那須さん側は再審無罪後、捜査・訴追の違法を理由に国家賠償を求めた。民事訴訟では、再審で無罪になったことと、当時の警察官・検察官に国家賠償法上の違法や過失があったかは別に審理された。
日本大百科全書は、国家賠償請求が最終的には認められなかった経過も記録している。再審無罪は刑事責任の否定だが、それだけで捜査機関の民事賠償責任まで自動的に成立するわけではない。
現行刑事訴訟法下の殺人事件で最初の再審無罪
日本大百科全書は、弘前大学教授夫人殺害事件を、現行刑事訴訟法で裁かれた殺人事件として最初に再審無罪となった事件と位置付けている。
一審無罪が控訴審で有罪へ変わり、15年刑が確定した後、真犯人の告白と鑑定の再検討で再び無罪へ戻った。事件が残した最大の論点は、「科学鑑定」と呼ばれる証拠でも、その採取・保管・鑑定経過まで検証しなければ有罪の土台にはできないという点にある。
参考資料・出典
- 日本大百科全書「弘前大学教授夫人殺害事件」
- Wikisource「弘前大教授夫人殺し事件再審判決」
- Wikisource「弘前大教授夫人殺し事件再審開始決定」
- Wikisource「弘前大教授夫人殺し事件民事一審判決」
- 法政大学大原社会問題研究所「弘前大教授夫人殺人事件再審判決」
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