弘前大学教授夫人殺人事件|那須隆さんに懲役15年・真犯人の告白で再審無罪

公開日 2026年7月23日
最終更新 2026年7月31日

弘前大学教授夫人殺人事件は、1949年8月6日夜、青森県弘前市で弘前大学医学部教授の妻が、就寝中に刃物で刺されて殺害された事件である。再審判決は滝谷を真犯人と断定しましたが、告白時には公訴時効が成立していたため、この殺人事件で起訴されることはなかった。

POINT
この記事でわかること
  • 弘前大学教授の妻が就寝中に殺害された状況
  • 那須隆さんが事件から16日後に逮捕された経緯
  • 一審無罪が控訴審で懲役15年へ覆された理由
  • 衣服の血痕鑑定と目撃証言に残された問題
  • 滝谷福松が公訴時効後に犯行を告白した経緯
  • 再審判決が滝谷を真犯人と断定した理由
  • 那須さんの無罪確定後に行われた補償と国家賠償訴訟
項目内容
一般的な呼称弘前大学教授夫人殺人事件、弘前大教授夫人殺し事件、弘前事件
事件発生1949年8月6日午後11時ごろ
発生場所青森県弘前市在府町の住居
被害者弘前大学医学部教授・松永藤雄さんの妻(当時30歳)
被害状況就寝中に頸部を鋭利な刃物で刺されて死亡
逮捕された人物那須隆さん
逮捕時の年齢25歳
逮捕1949年8月22日
殺人罪での起訴1949年10月24日
一審判決1951年1月12日、殺人罪について無罪
控訴審判決1952年5月31日、一審を破棄して懲役15年
上告審1953年2月19日、最高裁が上告棄却
有罪確定1953年3月3日
仮釈放1963年1月
真犯人の告白1971年、滝谷福松が犯行を告白
再審請求1971年7月13日
再審開始1976年7月13日
再審判決1977年2月15日、検察官の控訴を棄却
無罪確定1977年3月2日
真犯人の処分公訴時効が成立していたため起訴されず
現在の状況那須さんの再審無罪が確定。再審判決は滝谷福松を真犯人と断定

1949年8月6日、教授の妻が就寝中に襲われる

事件が発生したのは、1949年8月6日午後11時ごろだった。被害女性は、弘前大学医学部教授・松永藤雄さんの妻で、当時30歳だった。女性は夫の勤務に伴い、弘前市在府町にある住居で、夫と子どもたちと生活していた。

事件当日、夫は長男を連れて外出しており、室内には女性、女性の母親、4歳の長女がった。3人は同じ部屋に蚊帳を張り、並んで就寝していた。

母親が逃走する男を目撃

室内へ侵入した男は、眠っていた女性の頸部を鋭利な刃物で刺した。物音に気付いた母親が目を覚まして声を上げると、男は屋外へ逃走する。母親は、白い半袖シャツと短いズボンを着用した、20歳を過ぎたころとみられる男性を目撃したと説明した。

被害女性は頸部の動脈などを切断され、大量出血によって死亡した。室内から金品が奪われた形跡はなく、性的な暴行を受けた痕跡も確認されなかった。

現場から続く血痕と足跡

現場周辺では、犯人が負傷していた可能性を示す血痕と足跡が発見された。警察犬を使った追跡も行われ、捜査機関は犯人が現場近くに住んでいる可能性を検討する。犯人とみられる男を見たという情報も寄せられましたが、夜間の短い目撃であり、顔や服装を正確に特定できるものではなかった。

犯行に使用された刃物や、犯人が現場に残したと断定できる所持品は発見されていない。

捜査に協力した那須隆さん

那須隆さんは、事件現場から近い場所で家族と暮らしていた。当時25歳だった那須さんは、現場周辺を歩いて捜査に協力し、警察へ情報を伝えることもあった。しかし、その熱心な行動や事件に関する知識が、次第に疑いの材料として扱われるようになる。

さらに、事件当夜の行動について那須さんや家族、知人の説明に食い違いがあったことから、警察は那須さんへの疑いを強めた。那須さんは事件への関与を否定し、自白することもなかった。

白い靴の血痕鑑定を根拠に逮捕

警察は、那須さんが知人宅へ預けた白いズック靴を押収した。初期の検査では、靴に付着していた物が人の血液で、被害女性と同じB型だとする結果が報告される。警察はこの鑑定結果とアリバイに関する疑いなどを理由として逮捕状を請求した。

1949年8月22日、事件発生から16日後に那須さんは殺人容疑で逮捕された。ところが、その後に国の科学捜査研究所が行った検査では、靴から血痕を証明できないとの結果が出ている。逮捕の重要な根拠となった靴の血痕は、裁判で那須さんを犯人と認定する決定的証拠にはならなかった。

白いシャツから被害者と同じ型の血液

那須さん宅の捜索では、作業着として使用していた白い海軍型シャツも押収された。シャツの汚れについて複数の鑑定が行われ、人の血液で、被害女性と同じB型やQ型の反応を示したとされる。那須さん自身の血液もB型でしたが、当時用いられていた別の分類方法では、被害女性と那須さんを区別できると説明された。

控訴審は、この血痕が被害女性の血液である可能性を重視した。しかし、血痕鑑定の実施時期や方法、資料の保管・移送、鑑定書の記載には、不正確な点や矛盾が残されていた。再審判決は、血液型が一致するというだけでは、その血液が被害女性のものだと断定できないと判断している。

目撃証言も那須さんの特定には不十分

被害女性の母親は、犯行直後に逃げる男を目撃していた。ほかにも、事件当夜に現場付近で白い服装の男性を見たという証言が集められている。検察側は、目撃された男性の体格や歩き方が那須さんに似ていると主張した。

一方、事件は暗い夜道で発生しており、目撃時間もわずかだった。服装や年齢、身長が似ているというだけで、目撃された人物を那須さんと断定することはできなかった。

検察は根拠の乏しい犯行動機を主張

事件では金品が奪われず、被害女性と那須さんの間に明確な交友関係や対立もなかった。検察側は、那須さんが被害女性へ一方的な関心を抱き、特殊な性的欲求を満たすために殺害したという趣旨の動機を主張した。しかし、被害女性へ性的な暴行が行われた形跡はなく、この動機を直接裏付ける証拠もなかった。

那須さんは犯行だけでなく、検察側から付けられた人格的な評価についても強く否定している。後の再審判決は、那須さんを犯人と認める証拠がないと判断した。

1951年、青森地裁弘前支部が殺人罪で無罪

那須さんは1949年10月、殺人罪と、別件の銃砲等所持禁止令違反で起訴された。検察側は死刑を求刑しましたが、那須さんは犯行を一貫して否定する。1951年1月12日、青森地裁弘前支部は殺人罪について無罪を言い渡した。

裁判所は、血痕鑑定や目撃証言などを検討しても、那須さんが犯人であるとの証明は十分ではないと判断した。一方、銃砲等所持禁止令違反については罰金5000円が言い渡されている。那須さんは釈放されましたが、検察官は殺人罪の無罪判決を不服として控訴した。

1952年、仙台高裁が一審無罪を破棄

1952年5月31日、仙台高裁は一審の無罪判決を破棄し、那須さんに懲役15年を言い渡した。控訴審は、白いシャツに付着した血痕、目撃証言、事件当夜の行動、那須さんの事件後の言動などを総合して有罪と認定した。那須さん側は、シャツの血痕が被害女性のものだと特定できず、証言も不確かだとして最高裁へ上告する。

しかし、1953年2月19日、最高裁は上告を棄却した。同年3月3日、殺人罪を含む懲役15年の有罪判決が確定している。

約10年間の服役後に仮釈放

那須さんは控訴審で有罪判決を受けた後、再び身柄を拘束された。刑務所でも無実の主張を変えず、訴訟費用の支払いを求められても拒み続けたとされている。家族は裁判費用を用意するため、自宅や家財の一部を手放した。

那須さんは1963年1月に仮釈放されましたが、有罪判決は残されたままだった。出所後も就職や結婚、家族の生活に影響が続き、殺人犯として扱われる状態は再審無罪まで解消されなかった。

1971年、滝谷福松が真犯人として名乗り出る

事件から約22年後の1971年、滝谷福松が、自分が教授夫人を殺害したと告白した。滝谷は刑務所で同房だった人物を通じて那須さん側へ連絡し、その後、弁護士へ犯行の詳細を説明している。告白には、報道だけでは知ることが難しい現場の構造や侵入方法、被害女性を刺した位置、逃走経路などが含まれていた。

滝谷は、やすりを加工して刃物を作り、室内へ侵入したと説明している。さらに、自身も手を負傷し、現場周辺へ血を滴らせながら逃げた状況を供述した。供述内容は、事件当時に確認された血痕の位置や逃走方向と、細部まで符合していた。

滝谷が告白した時には公訴時効が完成

事件当時、殺人罪の公訴時効は15年と定められていた。1949年に発生した事件は、滝谷が告白した1971年より前に公訴時効が完成していた。このため、滝谷の告白が事実であっても、殺人罪で起訴して刑事責任を問うことはできなかった。

滝谷は捜査機関の被疑者として裁判を受けたのではなく、那須さんの再審手続きで証人として供述している。那須さんにとって、滝谷の告白は確定した有罪判決を覆すための新たな証拠となった。

最初の再審請求は棄却

1971年7月13日、那須さんは仙台高裁へ再審を請求した。裁判所は滝谷を証人として尋問し、現場検証や法医学的な再鑑定を行う。滝谷の供述は現場状況と多くの点で一致しましたが、仙台高裁は1974年12月13日、真犯人でなければ説明できないとまではいえないとして再審請求を棄却した。

弁護側は決定を不服として異議を申し立てる。異議審では、滝谷の供述を新旧の証拠と総合し、確定判決の有罪認定が維持できるか改めて検討された。

1976年、仙台高裁が再審開始を決定

1976年7月13日、仙台高裁は再審請求を棄却した決定を取り消し、再審開始を決定した。裁判所は、滝谷の供述が那須さんへ無罪を言い渡すべき明らかな新証拠に当たると判断している。供述は、犯行現場の構造、被害者の位置、侵入と逃走の方法、路上の血痕などと具体的に一致していた。

報道記事や公開資料を読んだだけでは作り上げることが困難な内容も含まれていたと評価される。一方、那須さんを犯人と認めた血痕鑑定や目撃証言には、単独で有罪を支えられるだけの証明力がないとされた。

再審判決が滝谷福松を真犯人と断定

1977年2月15日、仙台高裁は再審判決を言い渡した。本事件では一審が殺人罪について無罪とし、検察官の控訴によって有罪となっていた。このため再審裁判所は、新たに無罪を言い渡す形式ではなく、一審無罪に対する検察官の控訴を棄却した。

判決は、那須さんを犯人と認めるに足りる証拠はなく、滝谷の告白は客観的な証拠と極めてよく一致すると判断している。仙台高裁は判決理由の中で、滝谷福松が真犯人であると明確に断定した。検察側が上告しなかったため、同年3月2日に那須さんの無罪が確定した。

現行刑事訴訟法下で最初の殺人事件の再審無罪

弘前大学教授夫人殺人事件は、現行刑事訴訟法の下で裁かれた殺人事件として、最初に再審無罪が確定した事件とされている。一審無罪が検察官の控訴によって有罪へ覆され、長期間の服役後に真犯人が名乗り出るという特異な経過をたどった。那須さんは最初から自白しておらず、有罪認定は血痕鑑定や目撃証言などの状況証拠を積み重ねたものだった。

その状況証拠が誤って評価されれば、自白がない事件でも冤罪が生じることを示している。再審判決は、個々の証拠だけでなく、証拠の収集方法や鑑定の正確性を検証する重要性を明らかにした。

刑事補償として約1400万円を受け取る

無罪確定後、那須さんは不当に身柄を拘束されていた期間について刑事補償を請求した。1977年8月30日、那須さんには刑事補償金として1399万6800円が交付されている。刑事補償は、無罪が確定した人物が勾留や刑の執行を受けていた場合に、法律に基づいて支払われるものだ。

ただし、奪われた年月や健康、就職、家族が受けた不利益を完全に回復できるものではない。那須さんと家族は、捜査、起訴、裁判に違法行為があったとして、国へ損害賠償を求める訴訟も起こした。

国家賠償訴訟では最終的に敗訴

1981年4月、青森地裁弘前支部は、検察官による起訴と公判の維持に過失があったとして、国へ約960万円の支払いを命じた。しかし、仙台高裁は1986年11月、一審判決を取り消して那須さん側の請求を退ける。1990年7月20日、最高裁も那須さん側の上告を棄却し、国家賠償請求の敗訴が確定した。

最高裁は、再審で無罪となっただけで、当時の起訴や裁判が直ちに国家賠償法上の違法行為になるわけではないと判断している。この判断は、冤罪被害を受けた人物が、捜査・訴追機関の責任を国家賠償訴訟で認めさせることの難しさを示した。

真犯人が判明しても処罰されなかった事件

再審判決は、滝谷福松を本事件の真犯人と断定した。しかし、滝谷が告白した時点では公訴時効が完成しており、殺人罪で逮捕、起訴されることはなかった。そのため、被害女性の殺害について、真犯人を被告人とする刑事裁判は開かれていない。

滝谷の刑事責任を追及できなかった一方、無実の那須さんは長期間にわたり自由と社会的信用を奪われた。被害女性の生命が奪われた事件と、那須さんが誤って有罪とされた冤罪被害の双方が残された事件である。

弘前大学教授夫人殺人事件の主な時系列

  • 1949年8月6日午後11時ごろ:弘前大学医学部教授の妻が就寝中に刺されて死亡
  • 事件直後:被害女性の母親が、白いシャツ姿の男が逃げるところを目撃
  • 8月22日:現場近くに住む那須隆さんを殺人容疑で逮捕
  • 10月24日:那須さんを殺人罪で起訴
  • 1951年1月12日:青森地裁弘前支部が殺人罪について無罪判決
  • 判決後:検察官が一審無罪を不服として控訴
  • 1952年5月31日:仙台高裁が一審を破棄し、懲役15年を言い渡す
  • 1953年2月19日:最高裁が上告を棄却
  • 3月3日:懲役15年の有罪判決が確定
  • 1963年1月:那須さんが約10年間の服役を経て仮釈放
  • 1971年:滝谷福松が自分が真犯人であると告白
  • 7月13日:那須さんが仙台高裁へ再審請求
  • 1974年12月13日:仙台高裁が再審請求を棄却
  • 1976年7月13日:異議審が棄却決定を取り消し、再審開始を決定
  • 1977年2月15日:仙台高裁が検察官の控訴を棄却し、一審無罪を維持
  • 3月2日:那須さんの無罪が確定
  • 8月30日:刑事補償金1399万6800円を受領
  • 1981年4月27日:国家賠償訴訟の一審で国に約960万円の賠償命令
  • 1986年11月28日:仙台高裁が一審を取り消し、国家賠償請求を棄却
  • 1990年7月20日:最高裁が上告を棄却し、国家賠償訴訟の敗訴が確定
  • 現在:那須さんの再審無罪は確定し、再審判決は滝谷福松を真犯人と認定

現在の状況|那須隆さんの再審無罪が確定

那須隆さんの殺人罪については、1977年3月2日に無罪が確定した。したがって、那須さんを本事件の犯人や元殺人犯として扱うことはできない。仙台高裁の再審判決は、滝谷福松の告白が客観的証拠と一致するとして、滝谷を真犯人と断定した。

一方、滝谷は公訴時効完成後に告白したため、本事件で起訴、処罰されていない。那須さんには刑事補償が支払われましたが、国の損害賠償責任を求めた訴訟は最終的に認められなかった。現在の正確な状況は、那須さんの冤罪と再審無罪が確定し、真犯人と認定された人物は時効によって処罰されなかった事件である。

弘前大学教授夫人殺人事件が残したもの

弘前大学教授夫人殺人事件では、30歳の女性が幼い娘や母親と眠っていた部屋で命を奪われた。捜査機関は現場近くに住む那須隆さんへ疑いを集中させ、衣服の血痕や目撃証言を積み重ねて起訴した。一審は証拠不十分として無罪を言い渡しましたが、検察官の控訴によって懲役15年へ覆されている。

後に真犯人が告白し、現場状況と符合する詳細な供述を行ったことで、那須さんの有罪認定が誤りだったことが明らかになった。しかし、無罪確定までには事件発生から27年以上を要し、那須さんは人生の重要な時期を拘禁と服役の中で過ごした。一方、真犯人は公訴時効によって処罰されず、被害女性の遺族が刑事裁判を通じて責任追及を見届けることもできなかった。

本事件は、科学鑑定の正確性、目撃証言の限界、検察官による無罪判決への控訴、再審救済に長期間を要する問題を示した代表的な冤罪事件である。

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