三毛別羆事件|太田家・明景家を襲った6日間と「死者7人/8人」表記の違い

公開日 2026年7月23日
最終更新 2026年8月28日
カテゴリー 1940年代以前 事故・災害

事件ステータス

発生年月日
1915年
都道府県
北海道
事件分類
事故・災害

1915年12月9日から14日にかけ、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢の開拓集落で、一頭のヒグマが民家を相次いで襲った。林野庁北海道森林管理局は、約340キログラムのヒグマによって10人が殺傷された国内獣害史上最大の被害として三毛別を紹介している。一般に示される内訳は7人死亡、3人負傷である。

ただし、この事件にはもう一つ重要な特徴がある。現在広く知られる「6日間の詳細」は、1915年当時の新聞だけで完成したものではない。発生から約半世紀後、林務官だった木村盛武が生存者や遺族、討伐参加者を訪ね歩き、証言を集めて記録した。三毛別羆事件を読むときは、同時代に確認できる記録と、後年の聞き取りによって再構成された経過を分けて見る必要がある。

発生期間1915年12月9日〜14日
場所北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢
現在地北海道苫前郡苫前町字三渓
種類エゾヒグマによる獣害
公的資料の被害7人死亡・3人負傷
ヒグマ約340kgと林野庁が紹介
最初の致命的襲撃12月9日・太田家
大きな被害12月10日夜・明景家
終結12月14日、猟師の山本兵吉が射殺したとされる
後年の記録木村盛武が1960年代から関係者への聞き取りを実施

死者が出る前から、トウモロコシを荒らすヒグマが現れていた

木村盛武の記録をもとにした後年資料では、同年11月から三毛別の開拓農家周辺に大型のヒグマが現れ、軒先に保存したトウモロコシなどを荒らしていたとされる。住民は猟師を頼み、警戒や追跡を試みたが、仕留めるまでには至らなかった。

こうした前兆は事件の重要な背景だが、細かな日付、誰がどの場面で発砲したかといった描写の多くは木村による後年の聞き取りに依存する。100年以上前の出来事では、後から集められた証言と同時代記録の間に濃淡があること自体が資料上の特徴となっている。

12月9日、太田家で阿部マユさんと蓮見幹雄さんが犠牲になった

最初の致命的な襲撃は12月9日、太田家で起きた。木村の記録では、家にいた阿部マユさん(34)と、太田家に預けられていた蓮見幹雄さん(6)がヒグマに襲われた。幹雄さんは家の中で死亡し、マユさんはヒグマに運び去られ、翌日の捜索で遺体が見つかったとされる。

事件を理解するために必要なのは、残虐な状態の詳細ではなく、ここでヒグマが人を襲った後も集落周辺から離れなかった点である。住民は翌10日に捜索隊を組み、マユさんの捜索とヒグマの追跡を始めた。

通夜の太田家へ再び現れ、約20分後に明景家が襲われた

10日夜、太田家では犠牲者の通夜が営まれていた。木村の記録と後年に再検証された同時代新聞によると、午後8時半頃、ヒグマが太田家へ再び侵入した。このとき参列者は逃げ、死傷者は出なかった。

しかしヒグマはそこで去らず、ほどなく下流側の明景家へ向かった。明景家には女性や子どもを中心に住民が集まっていた。ヒグマが家へ侵入し、灯りが消えた室内で被害が一気に拡大した。

明景家では斉藤タケさんや幼い子どもが死亡した

明景家では、斉藤タケさん(34)、明景金蔵さん(3)、斉藤春義さん(3)、斉藤巌さん(6)らが死亡したと木村の記録は伝えている。タケさんは妊娠中で、胎児も死亡した。負傷者には明景ヤヨさん、明景梅吉さん、長松要吉さんが含まれる。

この夜の被害を含め、現在の公的な案内では事件全体を「7人死亡・3人負傷」とするのが基本となっている。林野庁の説明も、臨月の女性や幼児を含む10人が殺傷されたと整理している。

「死者7人」と「死者8人」は、事件そのものが二つあるわけではない

三毛別羆事件は資料によって死者数が7人または8人と書かれる。国立国会図書館の『慟哭の谷』書誌も「死者8名」と紹介している一方、林野庁など現在の公的資料では7人死亡・3人負傷とされる。

違いの一因は、明景家で負傷した明景梅吉さんが約2年8カ月後に死亡したことにある。2026年の文春オンラインによる同時代新聞と木村記録の検証では、タケさんの胎児を死者に含め、さらに後に死亡した梅吉さんまで含めると「8人」となると整理されている。事件当時の直接死傷者として数えるか、後年の死亡まで含めるかで数字が変わる。

明景家の襲撃日には「10日夜」と「11日」の記録差もある

現在広く採用される木村盛武の調査や苫前町史では、明景家が襲われたのは太田家の通夜と同じ12月10日夜と整理される。一方、事件直後の北海タイムスの記事には、第2の被害を11日に起きたものとして伝えた記述がある。

2026年に同時代新聞を再検証した文春オンラインも、この1日のずれを「本事件最大の疑問」とされてきた論点として紹介した。古い事件では、後年の証言が当時報道を補う一方、日付や人数が食い違う場合もある。明景家襲撃を10日夜とする現在の通説にも、こうした資料形成の過程がある。

12月11日以降、集落から住民が避難し、討伐が本格化した

明景家の襲撃後、六線沢の住民は集落を離れ、学校などへ避難した。ヒグマは無人となった家屋周辺にも現れたとされ、住民だけで対応できる段階を超えていた。

後年資料では、警察や猟師、周辺住民だけでなく、軍の将兵を含む大規模な討伐態勢へ拡大し、12日からの数日で官民延べ600人規模が動員されたとされる。多数の銃と猟犬が集められ、一頭のヒグマを追うために集落全体が事実上の非常態勢に入った。

犠牲者宅を使った待ち伏せも、木村の聞き取り記録に残る

木村の記録では、12月11日と12日の夜、明景家に銃を持った8人が入り、ヒグマが戻ってくるのを待ったとされる。被害者を置いた現場へ再び現れる習性を利用しようとしたものだったが、ヒグマは屋内へ踏み込まず、射殺には至らなかったという。

この待ち伏せの細部は同時代新聞で十分に確認できる事項ではなく、後年の聞き取りによる再構成として扱う必要がある。一方、討伐態勢が大規模化したこと自体は複数の後年資料で一致し、陸軍将兵30人を含む延べ約600人、銃約60丁、猟犬十数頭という規模が伝えられている。

12月14日、猟師・山本兵吉がヒグマを射殺した

12月14日午前、ヒグマは山中で追跡され、猟師の山本兵吉が射殺したと伝えられている。『日本クマ事件簿』を紹介した文春オンラインでは、山本が討伐隊とは別に山へ入り、午前10時頃にヒグマを仕留めたとしている。最初の死者が出た9日から6日目だった。

林野庁はこのヒグマを約340キログラムと紹介する。体長や細かな身体寸法には資料差があるため、数字を一つに固定するより、公的資料で確認できる体重と、後年の測定記録が混在していることに注意が必要だ。

1915年の新聞には「大熊と死傷十二名」「巨熊遂に殪る」が残る

事件が後年の伝承だけではないことを示す資料として、当時の新聞がある。北海道立図書館が2025年に行った所蔵調査では、北海タイムスの1915年12月16日付に「大熊と死傷十二名」、20日付に「巨熊遂に殪る」という記事が実在することが確認された。

当時の記事にある「死傷十二名」という見出しは、現在使われる7人死亡・3人負傷という10人の内訳と一致しない。発生直後の新聞報道でも人数の把握が揺れていたことが分かる。現在の被害数を同時代記事の見出しだけから決めることはできない。

事件を広く知らしめたのは、約半世紀後の木村盛武だった

林野庁は、三毛別羆事件が広く知られるようになったきっかけとして、事件から約50年後に古丹別営林署へ勤務した木村盛武による詳細調査を挙げている。国立国会図書館には、木村が1964年にまとめた『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』の書誌が残る。

木村は生存者や遺族、討伐隊関係者から証言を集め、後に『慟哭の谷』へまとめた。現在語られる個人名、家の配置、逃げた順序、猟師の動きなどの多くは、この聞き取り調査によって具体化した。事件の価値ある記録である一方、1915年当時の公文書そのものではない。

「袈裟懸け」や過去の人身被害との同一個体説は慎重に扱う

後年の物語では、加害ヒグマが胸部の特徴から「袈裟懸け」と呼ばれ、過去にも別地域で人を襲った個体だったという説明が登場する。しかし、この同一個体説は木村の聞き取りや猟師の証言を通じて伝えられた部分が大きい。

同時代新聞を再検証した近年の記事では、山本兵吉が語ったとされる過去の被害と一致する新聞記事が見つからない例も指摘されている。三毛別で7人が死亡した事実と、加害個体の「前歴」をめぐる伝承は、同じ確度では扱えない。

現場は「三毛別羆事件復元地」として残されている

現在、苫前町字三渓には三毛別羆事件復元地が整備され、開拓当時を模した住居や案内が置かれている。事件を観光的に再現する場所である一方、苫前町は現地で現在もヒグマが出没する可能性があるとして注意を促している。

復元地へ向かう道路は冬季閉鎖され、携帯電話が圏外となる区域もある。110年以上前の事件を伝える場所が、今もヒグマの生息圏の中にあるという事実は、三毛別羆事件を単なる昔の「伝説」にしない。人が山地へ入り生活圏を広げた時代に起きた獣害として、その記録は現在の北海道にも残っている。

参考資料・出典

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