大口病院連続点滴中毒死事件|患者3人殺害、院内の異常と死刑を回避した量刑判断

公開日 2026年2月19日
最終更新 2026年8月24日

2016年9月20日未明、横浜市神奈川区の旧大口病院4階で、入院患者の八巻信雄さん(88歳)の容体が急変した。看護師が使用中の点滴袋に異常な泡立ちがあることに気づき、病院から警察へ通報。八巻さんの体内と点滴から、院内で消毒に使われていた「ヂアミトール」の成分が検出された。

調べは、2日前に死亡した西川惣蔵さん(88歳)、さらに9月16日に死亡していた興津朝江さん(78歳)へ広がった。3人はいずれも同じ病院の患者だった。事件から約2年後、元看護師の久保木愛弓が逮捕され、3人への殺人と5件の殺人予備で起訴される。

この事件で裁判所が認定したのは「病院で多数の人が不審死した」という漠然とした疑いではない。誰への点滴に、どのように消毒薬を入れ、どの結果まで証明できたのか。さらに、3人を殺害した被告人に死刑を科すべきか。東京高裁判決は、起訴された事実と未起訴の疑いを分けた上で、量刑の境界を詳細に検討している。

事件発覚2016年9月20日、旧大口病院4階病棟
死亡した被害者興津朝江さん(78)、西川惣蔵さん(88)、八巻信雄さん(88)
被告人久保木愛弓(旧大口病院の元看護師)
起訴内容殺人3件、殺人予備5件
一審2021年11月9日、横浜地裁・無期懲役
控訴審2024年6月19日、東京高裁が検察・弁護双方の控訴を棄却
確定刑無期懲役

事件が発覚する前から、病院では複数の「院内の異常」が報告されていた

事件発覚後、横浜市は旧大口病院に対する医療安全行政の対応を検証した。検証報告書によれば、市には2016年7月5日、患者のカルテがなくなったことや看護師のエプロンが切られたことを伝える実名メールが届いていた。8月12日にも、飲み物に漂白剤のようなものが混入された疑い、看護師の唇の負傷、エプロンの切り裂き、カルテ紛失などを伝える情報が寄せられている。

横浜市は9月2日の定期立入検査で病院側に口頭確認をしたが、情報が十分に共有されず、患者の安全確保に向けた警察との連携にもつながらなかった。後の検証委員会は、行政側も患者の安全を守る観点から警察との連携を検討すべきだったと指摘している。

ただし、これら発覚前の院内トラブルすべてが久保木による行為だったと刑事裁判で認定されたわけではない。病院内で何が起きていたのかという行政検証と、久保木にどの犯罪事実が証明されたのかという刑事裁判は分けて読む必要がある。

興津朝江さん――自分の勤務外に急変させるため、使用前の点滴へ混入した

裁判と報道で明らかになった3件は、同じ消毒薬を使いながら手口が完全に同じではなかった。興津朝江さんの事件では、久保木は後に使用される予定だった点滴袋へ、あらかじめヂアミトールを混入したと認定された。

その点滴は事情を知らない別の看護師によって投与され、興津さんは2016年9月16日に死亡した。自分がいない時間帯に患者を急変させる方法として、看護業務の流れと点滴の管理を利用した犯行だった。

高裁判決が認定した動機は、患者本人への恨みではない。久保木は、勤務中に患者が急変・死亡して家族への説明や対応を求められることに強い不安を抱き、自分の勤務時間を外して死亡させようとした。患者の生命を、自身が避けたい業務上の負担と結びつけて処理した点に犯行の特徴があった。

西川惣蔵さん――点滴中に直接注入し、日勤者が残る時間帯の死亡を狙った

西川惣蔵さんのケースでは、使用前の点滴袋へ混ぜる方法ではなく、すでに投与されていた点滴の経路から消毒薬を直接入れたと認定されている。西川さんは9月18日に死亡した。

判決によれば、久保木は西川さんの容体が良くないことを踏まえ、日勤の看護師がまだ勤務しているうちに急変させれば、家族への対応を日勤者に担ってもらえる、あるいは少なくとも自分一人の負担を減らせると考えた。

3件に共通するのは、被害者との個人的な対立ではない。どの患者を殺すかという判断が、患者の状態と自分の勤務時間、家族対応の可能性という看護業務上の都合から形成されていた。

八巻信雄さんの点滴袋の異常が、殺人事件を表面化させた

八巻信雄さんについても、久保木は使用予定の点滴袋へヂアミトールを混入し、事情を知らない看護師が投与する形で殺害したと認定された。八巻さんが死亡した9月20日、点滴袋の泡立ちを看護師が不審に思ったことで、異物混入の疑いが外部へつながった。

警察は点滴と遺体を調べ、消毒薬に含まれる界面活性剤を検出。9月18日に死亡した西川さんも同様の中毒死だったことが分かり、捜査は連続殺人事件へ発展した。さらに興津さんの死亡についても調べが進められた。

犯行から逮捕までには時間を要した。久保木が逮捕されたのは2018年7月。3人について順次逮捕され、最終的に殺人3件と殺人予備5件で起訴された。

「殺人予備5件」は、5人を殺そうとしたという単純な数え方ではない

起訴された殺人予備5件の内容も注意が必要になる。高裁判決によれば、久保木は4人の患者へ投与される予定だった点滴袋にヂアミトールを混入したほか、不特定の患者に使用される可能性のある生理食塩水にも混入した。

つまり、「5件の殺人予備=特定された5人の患者への殺害未遂」と単純に置き換えることはできない。誰に使用されるか決まっていない輸液へ混入した行為も一つの起訴事実に含まれていた。

高裁はこの殺人予備について、複数の患者へ使用され得る行為を含み、生命への危険が大きいことを量刑上重く見ている。3件の既遂だけでなく、さらに被害が広がる危険を作った事実が裁判の対象になった。

責任能力をめぐり、精神科医の評価は一致しなかった

裁判では犯行事実だけでなく、久保木の精神状態と責任能力が大きな争点になった。精神鑑定を担当した医師らの評価は一致せず、自閉スペクトラム症の診断や精神症状をどのように捉えるかについて意見が分かれた。

東京高裁は、一審の証拠評価を検討した上で、久保木には自閉スペクトラム症の特性や抑うつ状態が犯行形成に影響した面があるとしながらも、統合失調症などによって現実検討能力を失っていたとは認めなかった。最終的に完全責任能力を認めている。

ここで重要なのは、「精神的な問題があったから責任能力が否定された」という事件ではないことである。裁判所は刑事責任を全面的に負えると判断した上で、その特性やストレスを死刑か無期懲役かを決める量刑事情として別に検討した。

検察は死刑を求刑。一審は「死刑を選ぶことがやむを得ないとまではいえない」とした

2021年の裁判員裁判で検察側は死刑を求刑した。3人の生命が奪われ、看護師が職務上の知識と機会を利用し、患者の点滴へ消毒薬を混入した。さらに殺人予備も複数ある。結果と犯行態様だけを見れば、極めて重い量刑事情が並ぶ事件だった。

横浜地裁はそれでも無期懲役を選択した。動機そのものは身勝手で酌むべき点がないとしつつ、動機が形成される過程では、久保木の対人対応の苦手さ、看護業務への不適応、夜勤を含む勤務ストレス、患者家族から強く叱責された経験などが重なり、強い不安と視野狭窄に陥っていった事情を考慮した。

加えて、それまでに前科がなく、もともと反社会的な価値観や他者への攻撃的傾向が強い人物ではなかったこと、反省や更生可能性も考慮された。一審は、死刑を選択することまでが「真にやむを得ない」とは言えないとして無期懲役を言い渡した。

高裁は「死刑が十分考えられる事件」と認めた。それでも一審を覆さなかった

検察側は無期懲役を不服として控訴した。東京高裁判決は、3人が死亡した結果、計画性、確定的な殺意、点滴を利用した方法、職業看護師が業務の機会に行ったこと、複数の殺人予備などを挙げ、「死刑の選択が十分に考えられる事案」と評価している。

それでも高裁は、一審の量刑判断を破棄しなかった。死刑は生命を永遠に奪う究極の刑罰であり、犯罪の性質、動機、計画性、殺害人数、遺族感情、社会的影響、被告人の前科や犯行後の事情などを総合し、真にやむを得ない場合に限って選択されるべきだという枠組みを確認した。

高裁が区別したのは「動機」と「動機形成過程」だった。患者や家族には何の責任もなく、自分の負担を避けるために殺害した動機自体は身勝手で、酌量できない。しかし、そこへ至るまでに本人の特性や強い不安、職場ストレスがどの程度影響したのかは、死刑を選ぶかを考える際の事情になり得るとした。

2024年6月19日、東京高裁は検察・弁護双方の控訴を棄却した。その後、上告されず、久保木の無期懲役が確定した。

検察が持ち込もうとした「起訴されていない同種行為」を高裁は量刑に広げなかった

控訴審では、起訴されていない同種行為に関する久保木の供述を、検察側が量刑資料として使おうとした点も争われた。検察側は、一審が関連供述を証拠として採用しなかったことにも問題があると主張した。

高裁は、未起訴の行為を広く量刑へ取り込むことには慎重な姿勢を示した。起訴されていない犯罪について実質的な有罪認定を行い、それを刑を重くする根拠にすれば、被告人がその行為について通常の刑事裁判と同じ防御を尽くせないまま不利益を受けるおそれがある。

このため、事件の全体像を考える際にも「久保木が供述したと報じられた人数」と「裁判で有罪が確定した被害」を混同できない。確定した犯罪事実は、3人への殺人と5件の殺人予備である。

病院と行政の検証が残したのは、刑事責任とは別の「医療安全」の問題だった

久保木の刑事責任が確定しても、事件前に院内で報告されていた異常への対応という問題は別に残る。横浜市の検証報告は、病院と行政の間で医療安全情報が十分に共有されなかったこと、患者の安全を守るため警察との連携を含む対応をより積極的に検討できたことを指摘した。

刑事裁判は、久保木が行ったことを証拠に基づいて確定する手続である。一方の行政検証は、同じ事件を二度と起こさないため、病院からの報告、自治体の立入検査、医療安全制度にどのような穴があったのかを検討するものだった。

大口病院事件を「何人を殺したのか」という未確認の数字だけで語ると、この二つが混ざってしまう。確定した3人の殺人と5件の殺人予備、事件前に報告されながら十分な連携につながらなかった院内異常、そして死刑を選ばなかった裁判所の量刑判断。公開資料から確認できる事件の核心は、そこにある。

参考資料・出典

資料確認日:2026-08-23

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