2018年5月24日、和歌山県田辺市の自宅で会社経営者の野崎幸助さん(当時77歳)が死亡した。司法解剖などから死因は大量の覚醒剤を経口摂取したことによる急性覚醒剤中毒とされた。死亡時に自宅にいた元妻・須藤早貴被告は2021年に逮捕され、殺人罪などで起訴された。
刑事裁判で争われたのは、野崎さんが覚醒剤中毒で死亡したこと自体ではない。「誰が、どのように覚醒剤を摂取させたのか」だった。検察は検索履歴、覚醒剤様の物の購入、スマートフォンの階段上昇記録、遺産を得る立場など多数の間接証拠を提示したが、和歌山地裁は2024年に無罪。大阪高裁も2026年3月に控訴を棄却した。大阪高検は4月6日、最高裁へ上告している。
| 死亡日 | 2018年5月24日 |
|---|---|
| 場所 | 和歌山県田辺市の野崎幸助さん宅 |
| 死亡した人物 | 野崎幸助さん(当時77歳) |
| 被告人 | 須藤早貴被告 |
| 公訴事実 | 致死量の覚醒剤を経口摂取させて殺害し、覚醒剤を使用したとするもの |
| 一審 | 2024年・和歌山地裁 無罪 |
| 控訴審 | 2026年3月・大阪高裁 検察官控訴棄却 |
| 上告 | 2026年4月6日・大阪高検が最高裁へ上告 |
| 現在 | 一・二審は無罪。上告中で判決は未確定 |
死因は争われなかった――争点は「事件性」と「犯人性」
和歌山地裁判決によれば、野崎さんの死因が多量の覚醒剤を経口摂取したことによる急性覚醒剤中毒である点に積極的な争いはなかった。推定摂取量は少なくとも1.8グラム。死亡時刻は午後8時ごろから遅くとも午後10時ごろまでと認定された。
公訴事実は、須藤被告が午後4時50分ごろから午後8時ごろまでの間に、覚醒剤を事情を知らない野崎さんへ経口摂取させたというものだった。つまり「覚醒剤で死亡した」という医学的事実から、「須藤被告が飲ませた」という刑事責任へ、証拠をどうつなぐかが裁判の中心になった。
検察が示したのは、単独では決め手にならない複数の間接事実だった
検察は、摂取可能時間帯に須藤被告が野崎さんと同じ家にいたこと、スマートフォンのヘルスケアアプリに通常より多い階段上昇記録が残ったこと、結婚後の財産関係、事件前のインターネット検索などを組み合わせて犯人性を主張した。
さらに須藤被告は2018年4月7日、インターネット上の掲示板を通じ、覚醒剤を売る趣旨の投稿をした人物へ連絡し、翌8日未明に覚醒剤様の物を受け取っていた。検察は、この入手行為と事件前後の検索履歴が、殺害準備を示すと位置付けた。
「覚醒剤様の物を受け取った」ことと「致死量の覚醒剤を入手した」ことは別だった
一審判決は、須藤被告が密売人から覚醒剤様の物を受け取ったこと自体は認定した。しかし、その品物が実際に覚醒剤だったと確定できる物証は残っていなかった。受け取った物と、約1か月半後に野崎さんの体内から検出された覚醒剤を直接結び付ける鑑定資料もなかった。
この点は間接証拠事件の重要な切れ目になった。「覚醒剤を入手できる行動をした」という事実は疑いを強めても、「その物を保管し、事件当日に野崎さんへ投与した」ところまで自動的には証明しない。裁判所は、その間に別の合理的可能性が残っているかを検討した。
8回の階段上昇記録は、2階で何をしたかまでは示さない
検察は、午後4時50分ごろから午後8時ごろまでの間に須藤被告のスマートフォンが少なくとも8回の階段上昇を記録し、とくに午後6時45分から7時53分までに7回上昇していたと指摘した。野崎さんがいた2階へ何度も向かったことは、投与後の様子確認などと整合すると主張した。
一審は、階段の上り下りが通常より多かったとしても、その記録だけでは各時点で須藤被告が何をしたのか分からないと判断した。二審も同様に、階段上昇という身体の動きを犯行行為へ直結させることには慎重だった。デジタル記録は行動の一部を示しても、行動の目的までは記録しない。
二審判決は時間帯をさらに細かく検討した。午後7時34分から35分にかけ、野崎さんの携帯電話から会社事務所へ2回の発信があり、この電話を野崎さん自身がかけたことは検察も争っていなかった。大阪高裁は、この時刻まで覚醒剤中毒の症状が現れていなかった合理的疑いが残ると指摘した。
また、2階の洗面所にあった歯ブラシやコップから覚醒剤が検出され、歯ブラシからは唾液由来の代謝物も検出されたと判決は整理している。これらは野崎さんが2階の洗面所などを自ら利用した可能性とも関わる。須藤被告が階段を上った時刻と、野崎さんに症状が出た時刻を一つに固定できない以上、「何度も2階へ行った」ことだけで投与後の監視行動と認定するのは難しいという評価だった。
「完全犯罪」「覚醒剤 過剰摂取」などの検索は強い疑いを生んだ
判決文には、須藤被告が事件前に「完全犯罪」「老人 死亡」「覚醒剤 過剰摂取」「覚醒剤 死亡」「遺産相続」などを検索していたことが記されている。検察は、野崎さんを覚醒剤で死亡させ、遺産を得る計画と結び付く検索だと主張した。
大阪高裁も、検索履歴や覚醒剤様の物の注文を合わせれば、須藤被告が野崎さんの殺害を考えていた可能性を疑わせる事情になること自体は否定していない。しかし判決は、事件直前に致死量や具体的な投与方法を調べた形跡など、明確な実行計画を示す検索までは確認できないと評価した。疑わしさと刑事上の証明は区別された。
遺産を得る立場も「殺人の動機」として決定打にはならなかった
須藤被告は野崎さんの妻であり、死亡すれば相続に関わる立場にあった。検察は、毎月の金銭支給や離婚の可能性などを踏まえ、財産を得るために死亡させる動機があったと主張した。
これに対し一審は、離婚が切迫し、直ちに野崎さんを殺害しなければ財産を得られなくなる状況だったとまでは認めなかった。二審もこの評価を不合理とはしなかった。相続上の利益が存在することと、その利益のために殺害を決意したことは別の事実である。
裁判所が最後まで排除できなかったのは「本人による過量摂取」だった
一審は、死亡時の状況から第三者が当日に侵入して覚醒剤を摂取させた可能性や、自殺目的で致死量を摂取した可能性を退けた。一方、野崎さん自身が何らかの経路で覚醒剤を入手し、量を誤るなどして過量摂取した可能性までは排除できないとした。
検察は、野崎さんの毛髪から覚醒剤が検出されず、携帯電話などにも入手痕跡がなく、普段から覚醒剤を嫌っていたことなどを挙げた。それでも裁判所は、捜査で把握し切れていない人間関係や入手経路があり得ること、覚醒剤との接触を示す痕跡が生活空間から出ていることなどを踏まえ、事故的な過量摂取を合理的疑いの外へ追い出すには足りないとした。
大阪高裁は、野崎さんが東京を頻繁に訪れ、交際クラブ関係者やマスコミ関係者など幅広い人脈を持っていたことにも触れた。警察が交友関係を相当程度調べても、そのすべてが解明されたとはいえず、携帯電話やインターネットに取引記録がないことだけで本人による入手可能性を完全には消せないとした。
さらに控訴審は、死亡の約3週間前に愛犬を失った後、野崎さんの感情が不安定になっていたことを関係証拠から認定している。ただし、これは自殺を認定したものではない。判決は自殺目的の摂取を否定しつつ、覚醒剤を使う場面で用量に十分注意せず過量摂取した疑いが完全には払拭できない、という限定された形で原判決の判断を維持した。
「苦い覚醒剤をどう飲ませたのか」も立証の空白になった
公訴事実は、野崎さんが事情を知らないまま覚醒剤を経口摂取させられたという内容だった。覚醒剤には強い苦味があり、少なくとも1.8グラムという多量を本人に気付かれず摂取させる方法が問題になった。検察は飲食物への混入やカプセルなど複数の可能性を論じた。
裁判所は、秘密裏の投与が物理的に不可能だとはしなかった。ただし、実際にどの方法が使われたのかを示す証拠はなく、投与の場面も確認されていない。「できた可能性がある」ことは、「実際にそうした」との認定とは距離がある。ここも犯人性を断定できない理由の一つになった。
二審の仕事は「怪しいか」ではなく、一審の無罪判断に誤りがあるかを見ることだった
検察は控訴審で、一審が各間接事実をばらばらに評価し、総合したときの推認力を過小評価したと主張した。抽象的な反対仮説にすぎない「野崎さん自身の入手・過量摂取」を残したことも事実誤認だとして、一審無罪の破棄を求めた。
大阪高裁は、検索履歴、覚醒剤様の物の購入、階段上昇記録などを総合しても、須藤被告が実行したとする推論に合理的疑いが残るという一審の判断は、論理則・経験則に照らして不合理ではないと結論づけた。控訴審は「別の裁判官なら有罪にするか」を競う場ではなく、原判決の事実認定に破棄すべき誤りがあるかを審査した。
2026年3月、大阪高裁も無罪を維持した
大阪高裁は2026年3月、検察官の控訴を棄却した。判決は、須藤被告に疑いを向ける事情が複数あることを認めながらも、覚醒剤の入手物と致死量の覚醒剤との同一性、具体的な投与方法、野崎さん自身が覚醒剤を入手した可能性などに残る空白を埋め切れないとした。
この結論は「野崎さんが自分で覚醒剤を飲んだと確定した」という意味ではない。刑事裁判では、被告人が実行したと合理的疑いなく証明できなければ無罪となる。一・二審とも、事故的な過量摂取を積極的な真相として認定したのではなく、検察の立証で排除できない合理的可能性として残した。
大阪高検は最高裁へ上告――無罪はまだ確定していない
大阪高検は2026年4月6日、二審判決を不服として最高裁へ上告した。テレビ朝日の取材に、高検は「上告審で適正な判決を求めるため」と説明している。これにより、須藤被告について一・二審の無罪判断は存在するものの、刑事判決はまだ確定していない。
2026年8月26日時点で、最高裁が上告を棄却した、または二審判決を破棄したとの公表は確認されていない。現在の法的状態は「殺人罪について一・二審無罪、検察上告中」となる。別件の刑事手続や相続をめぐる民事訴訟があっても、それ自体を野崎さん死亡事件の犯人性の証明として扱うことはできない。
参考資料・出典
- 裁判所「和歌山地方裁判所 令和3年(わ)第139号等 判決」
- 裁判所「大阪高等裁判所 控訴審判決」
- テレビ朝日「『紀州のドン・ファン』事件 1・2審無罪判決を不服として検察が最高裁に上告」
- テレビ朝日「『紀州のドン・ファン』元妻が2審に 検察は無罪判決の破棄求める」
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