1972年2月、警察が群馬県の山岳アジトを捜索したことで、連合赤軍の内部で起きていた大量死が表面化した。警察白書によると、組織に集まった29人のうち12人が、1971年末から1972年初めにかけて「総括」「処刑」の名の下で死亡していた。
捜査から逃れた5人は2月19日、長野県軽井沢町のあさま山荘へ入り、管理人の妻を人質に取った。10日間の立てこもりの末に5人は全員逮捕されたが、警察官2人と一般人1人が死亡し、多数の負傷者が出た。山岳ベースでの12人殺害と、あさま山荘事件は、一つの組織が短期間に崩壊していく過程で連続して起きた。
| 組織 | 連合赤軍 |
|---|---|
| 結成 | 1971年、赤軍派と日共革命左派の軍事組織が統合 |
| 山岳ベース事件 | 1971年末〜1972年初め |
| 山岳ベースの死者 | 構成員12人 |
| あさま山荘事件 | 1972年2月19日〜28日 |
| 立てこもった人数 | 5人 |
| あさま山荘の死者 | 警察官2人・一般人1人 |
| 負傷 | 警察官26人・一般人1人 |
| 最高裁 | 1993年2月19日、上告棄却 |
赤軍派と日共革命左派が合流して連合赤軍を結成
警察白書によると、共産同赤軍派と日共革命左派神奈川県委員会は1971年1月に共闘を宣言し、約半年後に双方の軍事組織を統合して連合赤軍をつくった。もともとの政治思想や組織文化が異なる集団が、武装闘争の実行部隊として一つになった形だった。
連合赤軍は山梨、神奈川、静岡、群馬などの山岳アジトを移動しながら、武闘訓練、爆発物製造、警察施設襲撃の準備を進めた。外部との対立を想定した武装組織は、ほどなく内部の構成員に対して暴力を向けるようになる。
29人のうち12人が「総括」「処刑」の名の下で死亡
1971年末から1972年初め、群馬県内の山中では、反抗的とみなされた者、逃亡のおそれがあると判断された者、訓練についていけないとされた者に対し、「総括」を求める暴力が繰り返された。警察庁は、この過程で構成員29人のうち12人が殺害されたと記録している。
12人の内訳は、日共革命左派側7人、赤軍派側5人だった。遺体は事件発覚を防ぐため山中に埋められた。組織の内部で「総括」という政治的な言葉が使われても、刑事裁判と捜査で扱われたのは、具体的な暴行、殺害、死体遺棄という犯罪事実だった。
「12人」と「14人」が混在するのは印旛沼事件の2人を含めるかの違い
連合赤軍事件では、被害者数が「12人」と「14人」の双方で語られることがある。警察白書は、山岳ベースで死亡した連合赤軍構成員を12人とする一方、連合赤軍への合流直前に日共革命左派が逃亡者2人を殺害し、千葉県の印旛沼付近に埋めた事件を別に記録している。
つまり「12人」は連合赤軍結成後の山岳ベース事件の死者数で、「14人」はその前段階に起きた印旛沼事件の2人を合わせて説明する場合の数字である。時期と組織の法的・歴史的区分を分ければ、数字の違いは矛盾ではない。
放置車両から山岳アジトが見つかり、警察の追跡が始まった
1972年2月7日、群馬県警は一般人から寄せられた不審な放置車両の届出を手掛かりに、榛名山中で雪に埋もれたアジトを発見した。警察が山中の拠点を押さえ始めたことで、連合赤軍の構成員は移動を迫られた。
指導部を含む一部は捜査の過程で逮捕され、残ったメンバーも次々に身柄を確保された。最後まで逃走を続けた5人が軽井沢へ入り、2月19日のあさま山荘事件へつながっていく。
5人が管理人の妻を人質に取り、10日間立てこもった
2月19日、坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5人は、軽井沢の河合楽器保養施設「あさま山荘」に入り、当時31歳だった管理人の妻を人質に取った。銃器を所持して建物内に立てこもり、警察との対峙が始まった。
警察は長野県警、警視庁などから延べ約1万4000人を動員した。山荘周辺は厳冬期で、警察は人質の安全確保を最優先にしながら包囲を続けた。立てこもりは2月28日まで10日間に及んだ。
警察官2人と一般人1人が死亡、27人が負傷
あさま山荘事件では、警察官2人が銃撃を受けて殉職した。さらに、山荘へ近づいた一般人男性1人が撃たれ、後に死亡した。警察白書は、このほか警察官26人と一般人1人が重軽傷を負ったと記録している。
2月28日、警察が山荘へ突入し、人質は救出された。立てこもっていた5人は射殺されることなく全員逮捕された。テレビ中継で広く知られた「あさま山荘」の場面は、すでに山中で12人が死亡していた事実が捜査で明らかになっていく入口でもあった。
捜査で山岳アジトに集まった17人を逮捕
警察庁によると、一連の捜査では山岳アジトに集まった連合赤軍の17人全員が逮捕された。構成員をかくまった者など27人も検挙され、真岡猟銃強盗事件など関連事件の捜査も進んだ。
押収物は397件、1万568点に上り、銃器や弾薬も回収された。山岳ベースの遺体発見、武器の押収、関係者の供述によって、組織内部の出来事は次第に刑事事件として再構成されていった。
裁判は山岳ベースだけでなく、印旛沼・あさま山荘など多数の罪を審理
主要被告の裁判では、山岳ベースでの殺人・傷害致死・死体遺棄だけでなく、印旛沼事件、銃器の強奪、あさま山荘での殺人や殺人未遂、公務執行妨害など多数の犯罪が審理対象となった。事件名を一語でまとめても、実際の起訴事実は複数の時期と場所にまたがっている。
1982年6月18日、東京地裁は永田洋子と坂口弘に死刑を言い渡した。東京高裁は1986年9月26日に死刑判断を維持し、事件は最高裁へ上告された。
1993年2月19日、最高裁が上告を棄却
最高裁第三小法廷は1993年2月19日、一連の連合赤軍事件について上告を棄却した。これにより永田洋子と坂口弘の死刑など、控訴審までの判断が確定した。
事件では、組織の思想や「総括」という内部用語がしばしば語られるが、裁判の結論は思想そのものを処罰したものではない。構成員への殺人・傷害致死、死体遺棄、あさま山荘での殺人・殺人未遂など、具体的な刑事責任が問われた。
永田洋子は死刑執行前の2011年に東京拘置所で死亡
死刑が確定していた永田洋子は2011年2月5日、東京拘置所で死亡した。法務省発表を伝えた報道では、65歳で、死因は多臓器不全と推定された。死刑は執行されていない。
山岳ベースの12人、印旛沼事件の2人、あさま山荘で死亡した警察官2人と一般人1人は、それぞれ発生時期も法的な事件区分も異なる。連合赤軍事件を理解するうえでは、これらを一括した人数だけで捉えず、組織内部の殺害と立てこもり事件を分けて追う必要がある。
「総括」は自己批判の要求から、身体への暴力へ変質した
山岳ベースで使われた「総括」は、もともと構成員に自己批判を求め、革命運動に参加する者としての弱点を克服させるという意味で使われていた。だが共同生活が進むにつれ、「総括を援助する」と称した暴力が加えられるようになった。
死亡した者は「総括をやりきれず敗北した」と説明され、さらに一部には組織内部で「死刑」が宣告された。政治的な内部用語が、暴力を正当化し、死亡した仲間に責任を転嫁する枠組みとして機能していった経過が、当事者記録や後年の検証で示されている。
森恒夫・永田洋子らが先に逮捕され、残った9人が軽井沢へ
警察に追われる過程で、連合赤軍は一斉にあさま山荘へ向かったわけではない。森恒夫、永田洋子ら4人が山岳ベース撤去前に逮捕され、残った9人が妙義山側から山を越えて軽井沢へ入った。
そのうち買い出しに出た4人が軽井沢駅で逮捕され、最後に残った5人があさま山荘へ入った。山岳ベース事件の指導者全員が山荘に立てこもったわけではなく、警察の追跡と逮捕によって組織が分断された末に5人が残ったという順序である。
連合赤軍と日本赤軍は同じ組織ではない
名称が似ているため混同されやすいが、連合赤軍と日本赤軍は同一組織ではない。連合赤軍は国内で赤軍派と革命左派の軍事組織が合流してできた。一方、赤軍派の重信房子らは海外へ活動拠点を移し、後に日本赤軍を組織した。
この違いは、1975年のクアラルンプール事件にも表れる。日本赤軍が人質解放の条件として収監中の活動家らの釈放を要求し、あさま山荘事件で公判中だった坂東国男は超法規的措置で釈放され国外へ出た。連合赤軍の刑事裁判と、日本赤軍が国外で起こした事件は、組織も事件も別である。
主要被告の裁判は10年以上続いた
山岳ベースでの殺人だけでも被害者と被告人が多数に及び、さらに印旛沼事件やあさま山荘事件などが併合されたため、主要被告の裁判は長期化した。東京地裁が永田洋子と坂口弘に死刑を言い渡したのは事件発覚から約10年後の1982年6月だった。
控訴審判決は1986年9月、最高裁判決は1993年2月19日。最高裁で上告が棄却されるまで、事件発生から20年以上が経過していた。山岳ベースで何が起きたかだけでなく、誰がどの殺害や暴行に関与し、どの事件についてどの刑事責任を負うかが長期間にわたり審理された。
参考資料・出典
- 警察庁「昭和48年 警察白書」連合赤軍事件
- 警察庁「昭和63年 警察白書」極左暴力集団の変遷と連合赤軍事件
- nippon.com「あさま山荘事件:連合赤軍がたどり着いた悲惨な結末」
- J-CASTニュース「連合赤軍事件の永田死刑囚死亡」
- 版元ドットコム/彩流社『十六の墓標(下)』著者プロフィール
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