連合赤軍事件は、1971年に結成された過激派組織「連合赤軍」が、山中のアジトで「総括」と称する内部粛清によって仲間12人を死亡させ、さらに1972年2月には長野県軽井沢町の「あさま山荘」で女性を人質に10日間立てこもった一連の事件である。さらに逮捕後、山岳アジトで仲間12人が死亡していた事実が明らかになる。「革命」を掲げた組織が、外部の敵ではなく内部の仲間を次々と排除して自壊した事実は、日本社会に強い衝撃を与えた。
- 連合赤軍はどのように結成されたのか 山岳ベースで「総括」が始まった背景
- なぜ仲間12人が内部粛清で死亡したのか 山岳ベース事件からあさま山荘事件へ至った経緯
- 10日間の立てこもりで何が起きたのか 森恒夫・永田洋子ら幹部がたどったその後 事件が学生運動と日本社会に与えた影響
連合赤軍事件の概要
| 事件名 | 連合赤軍事件 |
|---|---|
| 発生日・期間 | 1971年から1972年 |
| 現在の状況 | 連合赤軍事件は、1971年に結成された過激派組織「連合赤軍」が、山中のアジトで「総括」と称する内部粛清によって仲間12人を死亡させ、さらに1972年2月には長野県軽井沢町の「あさま山荘」で女性を人質に10日間立てこもった一連の事件である。さらに逮捕後、山岳アジトで仲間12人が死亡していた事実が明らかになる。「革命」を掲げた組織が、外部の敵ではなく内部の仲間を次々と排除して自壊した事実は、日本社会に強い衝撃を与えた。 |
連合赤軍はどのように結成されたのか 山岳ベースで「総括」が始まった背景
一つは「共産主義者同盟赤軍派」。もう一つは「日本共産党革命左派神奈川県委員会」で、京浜安保共闘などの名称でも知られたグループである。両派は思想的背景や組織文化が同じではありませんでしたが、武装闘争を重視する点で接近した。当時は1960年代末の学生運動が後退し、大学闘争も勢いを失いつつあった時期である。
その中で一部の活動家は穏健化ではなく、地下活動と武装闘争へ進んだ。赤軍派側では金融機関強盗による資金獲得などが行われ、革命左派側では1971年2月に栃木県の真岡銃砲店襲撃事件を起こして銃器を奪っている。連合赤軍は、すでに警察から追われる非合法活動家を多く抱えた状態で成立した組織だった。
警察の摘発を避け、群馬県などの山岳アジトへ
都市部での活動が困難になると、メンバーは山中へ潜伏する。群馬県の榛名山周辺などには「山岳ベース」と呼ばれるアジトが設けられた。目的は、警察の追跡を避けながら軍事訓練を行い、武装闘争へ備えることだった。
しかし山中での共同生活は、外部社会から切り離された閉鎖空間でもあった。メンバーは厳しい寒さの中で生活し、組織指導部の判断が日常のほぼすべてを支配するようになる。異論を唱えること。
逃げようとすること。服装や態度が「革命戦士らしくない」と評価されること。こうした行動が、やがて本人の思想や人格そのものを追及する材料となっていった。
「総括」という言葉が暴力と内部粛清へ変質
山岳ベース事件を理解するうえで欠かせない言葉が「総括」である。本来、政治運動における総括は、自らの行動や方針を振り返り、問題点を検討する意味で使われる。しかし連合赤軍内部では、次第に意味が変わった。
指導部から問題があるとされたメンバーは、自分の思想や態度を徹底的に自己批判するよう要求される。本人の反省が不十分と判断されると、周囲のメンバーが暴行を加え、拘束し、厳しい環境に置いた。暴力は「本人を革命戦士へ生まれ変わらせるため」という理屈で正当化される。
その結果、組織内で人を傷つける行為が「処罰」ではなく「仲間を成長させる行為」として扱われ、暴力を止める歯止めが失われた。
山岳ベース事件で仲間12人が死亡
1971年12月から1972年2月にかけて、連合赤軍の山岳アジトでは男女12人が死亡した。被害者は外部の警察官や対立組織ではない。同じ革命を目指し、同じ組織で活動していた仲間だった。
暴行を受けた者は、寒冷な山中で拘束されるなどし、衰弱していった。それでも指導部と周囲のメンバーは、死亡直前まで「総括ができていない」と判断することがあった。一人が排除されると、次に別のメンバーの言動が問題視される。
組織内部では、誰もが次の対象になり得る状況が生まれた。山岳ベース事件は、単純な一対一の殺人ではない。閉鎖された集団の中で、独自の思想と序列が暴力を正当化し、複数のメンバーが加害と服従へ巻き込まれていった集団的内部粛清だった。
森恒夫と永田洋子を中心に指導部の権力が集中
事件で中心的な責任を問われたのが、連合赤軍の指導者である森恒夫と永田洋子である。森は赤軍派側、永田は革命左派側の中心人物だった。山岳ベースで両派のメンバーが共同生活を始める中、森は「共産主義化」や「総括」を強く求め、永田ら指導部も個々のメンバーを批判した。
ただし、事件の原因を「森一人の異常性」や「永田一人の性格」だけで説明する見方には限界がある。実際には、閉鎖的な組織構造、警察に追われる極度の緊張、思想的純化、上位者への服従、集団圧力が重なっていた。だからこそ、事件は現在も「組織がどのように自壊するのか」を考える事例として語られている。
1972年2月17日、森恒夫と永田洋子らが逮捕
警察の捜索は、連合赤軍の山岳アジトへ迫っていた。1972年2月17日、最高指導部の森恒夫と永田洋子らが逮捕される。組織の中心人物を失った残存メンバーは、雪の山中を移動しながら逃走した。
さらに2月19日朝には別のメンバーが軽井沢駅周辺で逮捕され、逃げ続けた5人は追い詰められていく。その5人が逃げ込んだ場所が、長野県軽井沢町の「あさま山荘」だった。
2月19日、5人があさま山荘へ侵入し女性を人質に
1972年2月19日、武装した連合赤軍メンバー5人が「あさま山荘」へ侵入した。山荘は企業の保養施設で、5人はその場にいた管理人の妻を人質に取る。メンバーは銃器を所持し、警察の説得に応じなかった。
厳冬期の軽井沢で山荘は包囲され、事件は長期化する。警察は人質の安全を最優先しながら、放水、催涙ガス、装甲車両などを用いて突入機会を探った。一方、立てこもったメンバーは山荘内部から発砲を続ける。
こうして、日本中がテレビ中継を通じて見守る10日間の人質立てこもり事件となった。
2月28日の強行突入、警察官2人と民間人1人が死亡
立てこもり10日目の1972年2月28日、警察は本格的な救出作戦を実施した。現場では大量の放水が行われ、クレーンに取り付けた鉄球で山荘の壁を破壊する映像が全国へ生中継される。突入作戦は容易ではなかった。
立てこもり側の銃撃により、警察官2人が殉職。さらに事件では民間人1人も死亡した。多数の警察官らが負傷する。最終的に警察は山荘内部へ進入し、人質女性を無事救出。
立てこもっていた5人全員を逮捕した。
逮捕後に発覚した「仲間12人死亡」という事実
あさま山荘事件だけでも、日本社会を揺るがす重大事件だった。しかし本当の衝撃は、その後に訪れる。逮捕された連合赤軍メンバーの供述などから、群馬県内の山岳アジトで多数の仲間が死亡していた事実が判明した。
捜査によって遺体が相次いで発見され、山岳ベース事件の全体像が明らかになる。テレビで警察と銃撃戦を続けた「過激派組織」が、その直前まで内部で仲間12人を死に至らせていた。この事実は、それまで一部に残っていた過激派への政治的・思想的共感を大きく崩壊させた。
森恒夫は拘置中に死亡、永田洋子には死刑判決
事件後、主要メンバーは長期間にわたる刑事裁判を受けた。最高指導者だった森恒夫は、1973年1月、東京拘置所で自ら命を絶った。そのため森自身に対する刑事裁判は、最終判決へ至っていない。
永田洋子は山岳ベース事件などで刑事責任を問われ、死刑判決を受ける。1993年、最高裁で死刑が確定した。永田は脳の病気などで長期間治療を受け、死刑執行前の2011年、東京拘置所で死亡した。
あさま山荘事件の中心メンバーだった坂口弘にも死刑判決が確定している。
坂東國男は釈放後に国外へ出て国際手配
事件後の経過には、さらに特殊な展開がある。あさま山荘事件で逮捕された坂東國男は、1975年のクアラルンプール事件で、日本赤軍が人質と引き換えに拘束中の活動家らの釈放を要求した際、超法規的措置によって釈放された。その後国外へ出て、日本赤軍と合流したとされる。
警視庁は現在も坂東を国際手配中の日本赤軍メンバーとして掲載している。このため、連合赤軍をめぐる刑事手続きの一部には、事件から半世紀以上が経過しても終結していない側面がある。
なぜ連合赤軍は短期間で崩壊したのか
連合赤軍は、大規模な大衆組織ではなかった。むしろ、警察の摘発によって追い詰められた比較的小規模な武装集団だった。その中で複数の要因が重なる。
- 武装闘争を絶対視する思想
- 警察に追われ続ける極度の緊張
- 山中で外部社会から切り離された生活
- 指導部への権力集中
- 異論を許さない組織文化
- 自己批判を無限に要求する「総括」
- 集団の判断へ逆らえない心理
一度暴力が正当化されると、その暴力を疑う者自身が「総括の対象」になる危険が生まれた。結果として組織は外部との戦い以前に、内部の仲間を次々と失う。連合赤軍の崩壊は、過激思想だけでなく、閉鎖集団における同調圧力と権力集中がどこまで人間の判断を変えるのかを示す事件でもあった。
あさま山荘事件はテレビ報道の歴史も変えた
あさま山荘事件は、テレビ時代を象徴する事件でもある。2月28日の突入作戦は長時間にわたり生中継された。鉄球が山荘の壁を破壊する映像。
大量の放水。盾を持って進む機動隊員。銃撃を受けて搬送される警察官。
これらの場面が家庭のテレビへリアルタイムで流れ、日本中が事件の推移を見守った。事件は、重大事件を国民が「同時に目撃する」テレビ報道の力を強く印象づけた。
事件の現在|「革命」の名の下で組織が自壊した歴史
連合赤軍事件から半世紀以上が経過した。山岳ベース事件では、仲間12人が「総括」の過程で死亡。あさま山荘事件では、5人が女性を人質に10日間立てこもり、警察官2人と民間人1人が死亡した。
森恒夫は拘置中に死亡。永田洋子には死刑が確定し、執行前に病死。坂口弘にも死刑判決が確定した。
坂東國男は国外へ出た後、国際手配の対象となっている。事件は新左翼運動全体への社会的な視線を大きく変え、若者の政治運動離れを加速させた要因の一つとも評価されている。連合赤軍事件は、武装革命を目指した組織が、思想の純化と内部統制を極端に進めた末、仲間への暴力を正当化し、自ら崩壊した事件である。山岳ベース事件とあさま山荘事件は、閉鎖組織、集団心理、権力集中、過激思想の危険性を現在まで問い続けている。
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